明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

テレビのなかのスポーツ〜「カイエ・デュ・シネマ」によるワールドカップ


先日、 "Petite anthologie des Cahiers du Cinéma" のセルジュ・ダネーの文章にふれたが(ここを参照)、読んでいてどうも意味が通じないところがある。最初は、自分の頭が悪いのかと思ったが、どうもそれだけではないようだ。前にもふれたが(ここを参照)、この Petite anthologie シリーズの別の巻(「La Nouvelle vague」)には誤植がいっぱいあった。これもそうではないか。そう思って、本棚をごそごそと探っていたら、この本に載っているダネーの文章が最初に発表されたカイエが出てきた(あるものである)。比べてみたら、やはり思ったとおり、読んでいて意味がよくわからなかった部分は全部誤植だった。au lieu de とあるべきところが、de lieu de となっていたり、「,」と「.」が間違っていて、ひとつの文が二つに分けられていたり、とった大きな間違いが、わずか数ページのあいだに三つも四つもある。

信じがたいほどいい加減な編集だ。ラカンやバルトを批評に援用するのはいいが、テキストの扱いがいい加減では話にならない(このいい加減さは、かつての「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」にも受け継がれていたと思う)。こういうところだけは文献学的アカデミズムを見習ってほしいものだ。

さて、そのダネーの文章の前半だけをとりあえず訳してみる。

この討論会の意図するものは、謙虚であると同時に野心的でもある。謙虚というのは、この会議で問題となっていたのが、テレビ中継されたサッカーについて、事新しい説を唱えるでもなく、いくつかの見解を述べることにすぎないからである。そこでわれわれは、(1)「リベラシオン」のスポーツ・ジャーナリスト、ジャン・ハツフェルトに参加してくれるよう要請し、(2)サッカーのワールドカップの決勝*1を見直し、(3)発言のいくつかを書き直した。これが謙虚の意味である。野心的というのは、スポーツ現象をめぐるすべての議論が陥ってしまっているように思える悪循環から抜け出すことにある。スポーツは崇高か、それとも低俗か。全体的な和解であるか、それとも、すでにわれわれのうちに存在するファシズムか。取るべきか、捨てるべきか。要するに、スポーツは言い表すことができないのだ、という議論から抜け出すこと。

見せ物としてのスポーツ、きわめてメディア化された、テレビ中継された競技スポーツの場合、事態はさらにひどくなる。スポーツの批評(あるいは賛美)にはいつも、スポーツと姉妹のように似通ったテレビの批評(あるいは賛美)がともなう。「テレシネ」編集による小特集「サッカーとフットボール」においても、興味深い覚え書き、有益な情報と並べて、スポーツとテレビ(そして、もちろん両者の結合)についての破滅的なヴィジョンが描かれている。テレビというこの、パラノイア的で、なんでも知っていて、繊細な、大いなる実体は、すべての人に同時に同じ欲望を吹き込み、われわれに同じ肉体の調教を望ませ、われわれを「代理人を立てたスポーツマン」に変えてしまうというのだ(これは、ポルノに関してすでに用いられたことのある、社会学者の典型的発想だ)。このようなヴィジョンは、スポーツ嫌いとテレビ嫌いを(スポーツとテレビが、身分の卑しい文化的実践であることを思い出す必要がある)、同じ激しい糾弾の身振りのうちに、団結させようとするときは有効であるが、この問題を熟考するにあたっては、短絡的で不毛なものである。

テレビ中継されたスポーツには何種類もの観客がいる。少なくとも三つの観客がいると思う。不均等で、異質で、さらには互いに相容れない三つの観客が。スポーツを愛する観客(彼らはしばしばスポーツを実践している)、テレビが好きな観客、そしてメタ・ランガージュが好きな観客だ。要するに、ゲームに熱狂する人間と、ゲームのイメージに熱狂する人間、そしてゲームのコンテクストに熱狂する人間である。たったひとりの個人がこの三つの熱狂を持つことが難しいとしても(テレビ好きで左翼のスポーツ選手を、胸を締め付けられることなしに、想像することができるだろうか)、それでも、われわれはみな、多かれ少なかれ、この三つの観客よりなっているのである。この円卓会議の参加者たちの(危険な?)仮説は、スポーツ選手をサポーターと、テレビオタクを社会学者と闘わせる代わりに、この三つの視点のおのおのに肯定的なもの(衝動的なもの)が含まれていることを出発点として、テレビのスポーツを批評できるようにすべきだというものだ。それらを順番に、バラバラに検討するのである。


ここに書かれている討論会というのは、ダネー、セルジュ・トゥビアナ、そしてジャン・ハツフェルトらが、サッカーのテレビ映像について語り合った討論会のことで、ダネーのこの文章はそのイントロダクションとして書かれたものだ。


その討論会の内容もなかなかおもしろいので、簡単に要約しておく。

1. テレビはサッカーの試合を標準化する

テレビの映像では、わかりやすい派手な動きをする選手のほうが目立ちやすい。彼らよりももっと優れているにもかかわらず、その繊細で微妙な動きがテレビ向きではないため、印象に残らない選手がいる。テレビによってスターとなった選手は多いが、彼らが最高の選手だとは限らない。「テレビはある種のタイプの選手を標準化してしまう」のである。同じことは、選手の行う反則プレーについてもいえる。脚を引っかけるなどの反則はテレビではよく見え、印象も悪かったりするのだが、もっとひどい反則を使っているのにテレビでは見えにくいという場合も多い。

テレビ中継のサッカーでは、キャメラはボール中心主義で動いており、ボールがある場所を常に追いかけている。ところが、実際には、フレームの外の見えないところで、もっと重要な動きが起こっていることがある。しかし、テレビにはそれは映らない。

サッカーの映像はまたゴール中心主義でもある。こぼれ球を押し込んだだけの、どんなにくだらないゴールでも、他のどんなプレーよりも特権的に扱われてしまう。スロー再生が強制的に繰り返されるのも、ゴールの瞬間だけである。


2. すべてが語られるわけではない

サッカーのTV映像では、常に視聴者になにかが隠されている。フレームの外にあるものはもちろんだが、とりわけ音がそうである。サッカーの中継では、ボールを蹴る音さえ聞こえてこない。聞こえてくるのは、アナウンサーの声だけだ。しかも、そのアナウンスというのが、たいていは、テレビの画面に見えていることを伝えるだけである。


3.画面外のインサート・ショット

その一方で、テレビの視聴者は、ある意味、アナウンサーよりも、スタジアムの観客よりも、だれよりも競技の全体を見渡すことができる位置にいるということもできる。そこで重要になるのがインサート・ショットの存在である。ここでインサートといわれるのは、ボールの軌道以外に関わるすべてのショットのことである。たとえば、ゴールが決まったときのベンチの監督の顔とか、ボールのはるか背後で守っているキーパーの様子とか。サッカーの映像における画面外 hors-champ との関わりで、インサート・ショットはいかなる役割を果たしているか。


乱暴にまとめると、だいたいこういった内容になる。これが載っている号ではハンス=ユルゲン・ジーバーベルクの『ヒットラー、ドイツ映画』の小特集が載っているぐらいだから、相当昔のものである。サッカー中継もこのころから比べて技術的に大きく進歩しているから、多少的はずれになっている部分もあるが、今読んでも興味深い意見が多々あって、結構読み応えがあった。

*1:原註:延長戦の末、アルゼンチンがオランダを3対1で下した。