ひさしぶりにフランスの Amazon で買い物をした。ジャン=ダニエル・ポレの『地中海』がDVD化されていることを知ったからだ。
ゴダールの評論で眼にして以来、ずっと気になっていた監督だったが、いままで見る機会がなかった。日本ではほとんど話題にならない監督である。情報もほとんどはいってこない。それにしても、ポレが2004年にすでに亡くなっていることに気づかなかったとは、うかつだった。
その後、彼の作品は続々とDVD化されていたらしい。今回新たに『L'amour c'est gai, l'amour c'est triste』がDVD化されるという「リベラシオン」の記事を見てはじめて、ポレが亡くなっていたこと、その作品の多くがすでにDVD化されていることを知ったというわけだ(ちなみに、いささか保守的なシネフィル、ジャック・ルールセルによると、この作品がポレの最高傑作ということになるようだ。トーキー以後のフランス映画を知るためには、『素晴らしき放浪者』、『Faisons un rêve』(サッシャ・ギトリ)、『エドワールとカロリーヌ』、『快楽』、『黄金の馬車』、『スリ』などとならんで、この作品が欠かせないらしい)。
わたしが注文したBOXには、『地中海』をふくむ初期の2作と、中期の『Ordre』、フランシス・ポンジュのテクストを映画化した『Dieu sait quoi』と遺作となった『Ceux d'en face』の晩年の2作を収めた、DVD三枚がはいっている。
しかし、ジャン=ダニエル・ポレとはいったい何者なのか。わたしにはまだまったくわかっていない。処女短編の『酔っぱらってりゃ』について梅本洋一が、『ブロンドの恋』のミロシュ・フォアマンは『酔っぱらってりゃ』を見ているにちがいない、でなければ『ブロンドの恋』を撮れたわけがないと書き(残念ながら『酔っぱらってりゃ』はまだDVD化されていない)、処女長編『照準線』についてゴダールが、「オーソン・ウェルズが『市民ケーン』を撮影したのは、彼が25歳の時であった。それ以来、世界中のすべての若い映画作家は、25歳以前に、最初の大作を作ろうとしきりに夢見ていた。ポレはこの夢を実現する最初の人物になるだろう」と評していること。せいぜいそういったことを知っているぐらいである。しかし、これだけで、どうしても見たいと思うには十分だ。
『映画を作った100日』(「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン特別号」)のなかで、ノエル・シムソロが、リールのシネクラブで『地中海』が上映されたときの様子をこう書いている。
ピエール=アンリは、パリで『地中海』のフィルムを見つけてきた。彼は、この作品を詩的な息吹による破壊行為という2、3言で紹介し、それから映写技師に合図をする。会場は、嘲笑するざわめきのなかで明かりが消されるが、映像がスクリーンに現れるや否や驚きと感嘆の沈黙がその嘲笑に取って代わる。観客たちは、ただ驚嘆するばかりである。この疑似ドキュメンタリーは、自由な思考を強要させつつ物事がはっきりと区別できないといったふつうではない状態に観客たちを導いてゆく。一風変わった体位旋律としてフィリップ・ソレルスが解説するテクストとアントワーヌ・デュアメルの魅惑的な音楽が際だたせる横や正面の緩慢な移動撮影を目の前にして驚愕してしまうのはなぜなのか、わたしたちにはその理由がまったくわからない。音楽と絵画が映画に刻み込まれたものを見ているような気がする。1秒24コマの流れに沿って、わたしたちは自ずと想像の国へと進んでゆき、そこでは感覚が理性にひらめきを与え、例外的なものに遭遇するのだということをはっきりと直感させてくれる。規範や規則や基準を超えたものに遭遇することを。つまり一言でいえば、わたしたちは、現在進行形のエクリチュールのなかに身を投じているのだ。
ポレの映画が批評家たちから高い評価を得ていることがこれでわかる。しかし、その一方で、彼の映画は本国フランスでさえほとんど上映されることがないというのもまた事実のようだ。敬して遠ざけられる孤高の作家といったところだろうか。ヌーヴェル・ヴァーグが生まれる瞬間のパリの映画世界を活写した山田宏一の『友よ、映画』には、ジャン=ダニエル・ポレの名前は一度として登場しない。この賞賛と無視のアンバランスさが、逆に、見てみたいという激しい衝動をかきたてる。
注文した品が到着するのはもう少し先になりそうだ。見たあとでまた報告したい。