明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

キング・ヴィダー覚書


NHK BS で放映された『テキサス決死隊』を見ていたら、白黒だと思っていたのにカラーではじまったので驚いた。なんのことはない、36年のキング・ヴィダー版ではなく、49年のレスリー・フェントン版だった。基本的には同じ話だが、フェントン版では、ヴィダー版の少年が、大人になりかけの少女に置き換えられている。ヴィダー版にもあった、アウトローからレンジャーになった主人公と、アウトローのままとどまった友人との確執に、少女との三角関係がくわわり、よりメロドラマティックになっているところが特徴だ。オリジナル版ではほとんど人間扱いされていなかったインディアンが、リメイクではまったく姿をあらわさないのも、この20年のあいだの西部劇におけるインディアンの表象の変化を感じさせて興味深い。そう悪くない出来だとは思うが、女優が弱すぎる。話も少しごちゃごちゃしすぎていて、ヴィダーの白黒版のB級的な簡潔さの方が好ましい。

いずれにせよ、わたしの好きなヴィダーは『テキサス決死隊』のヴィダーではない。セルジュ・ダネーは、ふたりのトリュフォーがいるといったが、わたしにはヴィダーもふたりいるように思える。ヴィダーの映画には、集団と社会の関係を多少の陰影はあれポジティヴに描いた作品と、コントロールしがたい欲望に引きずられて破滅する個人を描いた作品の二種類があるのだ。前者の代表作である『群衆』や『麦秋』(同じ名前の主人公の登場する、ある意味『群衆』の続編)も嫌いではないが、わたしがほんとうに好きなのは、後者に属する『白昼の決闘『摩天楼』『ルビィ』といった作品のほうである(『テキサス決死隊』がどちらに属するかというと、これはどちらでもないというか、軽い気持ちで取り上げた作品で、あまりヴィダーらしさが見つからないというのがわたしの結論だ)。

アンドリュー・サリスの言葉を借りるなら、前者の作品は「ヒューマニズム博物館」の時代に属し、後者の作品は「錯乱したモダニズム」の時代に属する。この後者の作品群がはじまるのは、基本的に、戦後の『白昼の決闘』からだといっていいだろう。監督が何人も入れ替わり、セルズニックの息のかかったこの作品を、はたしてヴィダーの作品と呼びうるのかについては疑問もあるだろうが、『摩天楼』や『ルビィ』とならべてこの作品を見たとき、『白昼の決闘』はやはりヴィダーの作品であるといわざるをえない。『白昼の決闘』のグレゴリー・ペックジェニファー・ジョーンズの愛憎なかばする恋人たちや、『摩天楼』『ルビィ』に描かれる男女の関係は、『嵐が丘』を思わせる激しさに満ちている。わたしにいわせれば、エミリ・ブロンテを映画化できるのは、リヴェットでも吉田喜重でも、いわんやローレンス・オリヴィエでもなく、キング・ヴィダーなのだ。

ゲーリー・クーパーと言われても顔を思い浮かべることも出来なかったし、キング・ヴィダアなどという大昔の監督の名前も知らなかったし、金髪をきれいにセットして、白い絹のシャツ・ブラウスにグレーかオフ・ホワイトの乗馬ズボンにブーツという姿で、理想主義者で自分の理念を押し通そうとして仕事を得られない主人公の建築家の働いている石切場に現れる建築評論家で金持ちの娘のパトリシア・ニールという女優を見るのも初めてで、映画はメロドラマだとタカをくくっていたのにとても面白く、途中からすっかり引き込まれてしまい、自分の設計プランに一切の変更を加えないという条件で引き受けた摩天楼が完成すると、それはスチールと石の平面でシャープな美しさを組み合わせたアメリカ的な、垂直性と軽快さと巨大さを同時に持つ、優美ではないけれど力強い、古典的秩序を示す『石』と現代的エネルギーの『スチール』の理想的な結びつきから誕生した、まったく新しい二十世紀の大伽藍であるはずのものが、構造だけはそのままに、三十年も前のスチール構造にイタリア・ルネッサンス様式の石の装飾被膜をファサードに張り付けた醜悪なシロモノに一言のことわりもなく変更されてしまっていたのだ。」

金井美恵子『恋愛太平記』


ドゥルーズは戦後のヴィダーを、シュトロハイムブニュエルと同じ自然主義の作家としてとらえている。とりわけ、ヒロインのまわりに激しい欲動に満ちた原初的世界を展開させることにおいては、アメリカ映画において例外的な存在であったと、ドゥルーズはいう。同じく自然主義の作家に分類されているブニュエルがやはり『嵐が丘』を撮っているところも、わたしのなかでは符合する。


わたしの好きな戦後のヴィダーは、日本ではどちらかというと人気のない作品ばかりで、たぶんその系列に属するはずの『森の彼方に』もいまだに見る機会がない(海外でもいまのところ DVD にはなっていないようだ)。一方で、ヴィダーの戦前の作品のなかにも、見逃しているものが数多い(いまいちばん見たいと思っているのは、30年に撮られた西部劇『ビリー・ザ・キッド』だ。社会にたいして反逆したこの主人公を、戦前のヴィダーがどう描いているのかが気になるところである)。このように欠落している部分が多々あるというのも理由のひとつだろうが、わたしにはヴィダーが戦後になって『ルビィ』のような作品を撮るようになった理由が、いまひとつわからない。『麦秋』では大地を満たしていく希望の象徴だったその同じ水が、『ルビィ』のラストで、豊かになった大地をもとの沼地へとかえていくのを見ながら、ただただ呆然とするばかりである。