明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。































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神戸映画資料館でわたしが行っている「連続講座:20世紀傑作映画 再(発)見」の詳細が決まりました。

「連続講座:20世紀傑作映画 再(発)見
第8回 パプストとブルックス──『パンドラの箱』を読み解く」
2019年12月22日(日)
詳細はここで。
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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ナダヴ・ラピド『幼稚園教師』ほか

ナダヴ・ラピド『幼稚園教師』★★★

テイ・ガーネット『支那海』★★

マルコム・セント・クレア『駄法螺大当り』★




ナダヴ・ラピド『幼稚園教師』(Haganenet, 2014)


イスラエルの監督ナダヴ・ラピドの『ポリスマン』に続く長編劇映画第2作目。


テルアビブの幼稚園に勤める女教師が、園児の一人が類まれな詩の才能を持っていることに気づく。しかしそのことに本気で驚き、理解するものは彼女の周りに一人もいない。一見理解を示しているように見えた女優の卵である園児の若き乳母は、男の子の詩をオーデションで勝手に使って、詩を〈搾取〉している。女教師はそれに腹を立て、園児の父親に訴えて乳母を解雇させる。しかし、ビジネスマンである園児の父親も、詩など何の役にも立たないと考えている者の一人に過ぎない。女教師の一人息子も、軍隊で男らしさを見せることにやっきであり、詩の世界とは全く縁がないようだ。


詩などなんの意味も持たないそんな社会の中で、女教師は園児の詩の才能を今救うことができるのは自分だけだと考え、一人で戦い始める。彼女は、園児が突然口ずさみ始める詩を、消え去る前に必死でメモし、園児本人さえわかってない詩句の意味を彼に解釈し、まだ自覚がないように見える園児をさらに詩の方向へ導こうとする。だが、女教師の行き過ぎた〈教育〉を知って激怒した父親によって男の子が別の園に移されてしまうと、女教師はその幼稚園を探し出し、園児を誘拐してしまう……。


最初、女教師は、マネーや有用性や〈男らしさ〉が支配している現代イスラエルの社会、というよりもこの世界の中で、役に立たないものと思われている詩=創造性を救おうとして一人戦っている英雄のように見えるが、映画が進行していくに連れて、彼女自身も園児を利用し、搾取している一人のようにも見えてくる。生まれてきた詩を朗読することと、それを紙の上に書き留めることの間にすでに大きな断絶があるのではないか。突然園児の頭の中に降りてきて、彼が朗読し始めた詩を、女教師が紙に書き留めることがすでにして詐取=搾取ではないのか。他方で、一見無垢に思えた男の子の方も、すべてを見透かした上で女教師を誘惑していただけなのかもしれない(ラストの裏切りはそんな事を考えさせる)。すべてが実に曖昧で、その曖昧さがなんとも魅惑的な作品である。


見ている間になぜだかロッセリーニの『ヨーロッパ51』を思い出していた。子供がきっかけで女の主人公が思いもかけなかったところへとたどり着いてしまうという物語だからか。


あまり興味が無いのでちゃんと調べていないが、確かハリウッドでリメイクされているはず。


テイ・ガーネット『支那海』(China Sea, 1935)


クラーク・ゲーブルジーン・ハーロウウォーレス・ビアリーが共演した海洋もの。


ゲーブルは傲慢で高飛車な船長の役で、『風と共に去りぬ』のタイプのいつもの役どころ。ジーン・ハーロウは、ゲーブルに相手にされず、腹いせにビアリーによる反乱の片棒を担いでしまう女という難しい役どころなのだが、ただギャーギャー喚いているだけに見える。一つ一つを見ていくと、あまりいいところはないのだが、何故か全体的には全然悪くない。


マルコム・セント・クレア『駄法螺大当り』(The Show-Off, 1926)


フォード・スターリング主演の他愛もないコメディ映画。ルイーズ・ブルックスは映画の中で一度アップがあるだけの完全な脇役だが、ビデオのパッケージには彼女の写真が全面に使われていて、allcinema でも出演欄にはブルックスの名前しか書いていない。しかし、大ぼらばかり吹いているどうしようもない男を演じているスターリングに、最後の最後にビシッと言ってのける役は彼女のものである。