ヤン・トロエル『これが君の人生だ』 ★★½
ウィリアム・ウェルマン『人生の乞食』★★½
ジョセフ・ロージー『暴力の街』★★
フランク・タトル『百貨店』★½
エドワード・サザーランド『チョビ髯大将』★
カルロス・サウラ『従妹アンヘリカ』★
ヤン・トロエル『これが君の人生だ』(Här har du ditt liv [This Is Your Life], 1966)
20世紀初頭のスウェーデンを舞台に一人の少年 が成長してゆく姿を描くノーベル賞作家エイヴィンド・ユーンソンの半自伝的小説を映画化した、3時間近くに及ぶヤン・トロエルのデビュー作。
主人公の利発な少年は、貧しい養父母の家を出て、最初は材木工場か何かで過酷な肉体労働に従事し、やがてそこを出て、映画館で働きだす。館内でのキャンディ売りから始めて、次は劇場係、そしてついには映写技師になり、携帯用の映写機を持って旅先で映画を上映するようになる。苦い恋愛を経験する一方で、10代の若さで哲学書を読み、自分は社会主義者だと公言する少年は、仲間の労働者たちと労働運動に勤しむ。しかし結局、多くの労働者たちにとっては理想よりも生活のほうが大事で、計画していたストも実現しない。そこでも挫折した彼が、それでもめげずに新天地を目指して旅立ってゆくところで映画は終わっている。
ゴーリキーの名前が主人公によってつぶやかれもするこの映画には、マルク・ドンスコイのゴーリキー三部作を思い出させる雰囲気がある。ヤン・トロエル監督自身によるモノクロ撮影も美しい。しかし、見ていていちばん驚いたのは、少年が旅先で映画を上映する場面だ。急遽映画館に仕立て上げた田舎のホールかどこかで映画を上映するのだが、映画を上映し始めるときに少年が映写機の横にある蓋を開けて、擦ったマッチの火を中に入れたのでわたしはびっくりした。当然可燃性のフィルムを使っていたはずのこの時代に、映写機の周りほど火気厳禁の場所はないではないか。すぐにわかったことだが、どうやらこの映写機はガスを使ってガス灯を点灯させ、その灯りで映画を上映していたらしいのだ。映写機の中のランプ自体は画面には映らないのだが、映画の上映が終わったあとで少年がガスボンベにつながったホースを映写機から外すショットがあるので間違いないだろう。
映画の映写機は電気で動かすのが当たり前だと思っていたので、それ以外の可能性など今まで考えたこともなかった。まさに目からウロコの体験である。ガス灯の光ではたして映画の上映をするに足る光量が得られるのだろうかという疑念がなくはないが、これはおそらく原作作家の体験をもとに書かれた場面であろうし、実際に、そうした形で上映が行われていたことはたしかだろう。それにしても、これは例外的な事例だったのか、それとも、他の国でもガスを使った上映は行われていたのだろうか。その辺の調査は今後の宿題にしておく。
ウィリアム・ウェルマン『人生の乞食』(The Beggars of Life, 1928)
浮浪者のリチャード・アーレンが食料を求めて通りすがりの家に入ると、ナイフで夫を殺したばかりのルイズ・ブルックスが呆然と立っているところから映画は始まる。ブルックスは警察の追っ手から逃れるために男装をして、アーレントと共にあてのない放浪生活を始める。ルイズ・ブルックスがほぼ全編にわたって、ジャケットにズボンの男性ファッションで登場し、トレードマークの髪型もソフト帽で封印して演技しているところがユニークだ。ブルックスの魅力が最大限に発揮された作品だとは思わないが、フラッパー・ガールでも悪女でもない女を演じているという意味では、彼女がハリウッド時代に珍しく女優として 扱ってもらえた作品の一つと言っていいだろう。列車の映画でもある。
ジョセフ・ロージー『暴力の街』(The Lawless, 1950)
かつては社会問題に鋭く切り込む記事を書いていた都会の新聞記者が、戦い続けることに疲れて、地方の新聞社に拠点を移し、そこで静かな生活をはじめる。しかし、そこで差別されていたメキシコ移民の若者の一人が警官に暴行して逃走する事件が起きる。記者は最初は傍観者の姿勢を貫いていたが、移民たちの問題に心を痛めている地方の新聞社の娘と出会ったことで次第に事件に深く関わってゆくようになる。事件を起こした若者は記者によって保護されるが、彼に暴行を受けたと思わず嘘の証言をしてしまった少女や、事件を歪曲して伝える報道によって、町中の憎悪が若者に向かい、彼を擁護する記者も町の住民たちから激しく敵視されてしまう。
ロージーらしいいやらしさはほとんど感じられず、30年代のワーナーの社会派映画のようなテイストの作品。
フランク・タトル『百貨店』(Love 'Em and Leave 'Em, 1926)
百貨店を舞台に、そこで働く美人姉妹を描いた軽いテイストのラブ・ロマンス。イブリン・ブレントが姉を、ルイズ・ブルックスが妹を演じている。この映画のブルックスは、婦人会か何かのために集めた会費を内緒で競馬に賭けて大損し、その責任を姉が代わりに取らされているのを知りながら、あっけらかんとパーティで楽しそうに踊り、挙句の果てに姉の恋人まで奪ってしまう。物語自体は他愛もないものだが、この映画は『パンドラの箱』以前にブルックスが悪女としての魅力を発揮した作品としては代表作の一つに入るだろう。しかし、どれだけ悪女を演じていても、この映画の彼女には怪しげな暗さは微塵もない。そこが『パンドラの箱』に通じる部分でもあり、また異なる部分でもある。
カルロス・サウラ『従妹アンヘリカ』(La prima angélica, 1974)
カルロス・サウラは同一画面の中で過去と現在を共存させる演出を好んで使い、この映画では全編に渡ってそれを多用しているのだが、同じ手法をよく用いるテオ・アンゲロプロス作品の同様の場面の大胆さと繊細さに比べると、とにかく下手くそすぎて目も当てられない。主人公の中年男が、少年時代に愛した従妹(すでに人妻になっている)に再会し、プルーストの小説のように過去がとめどなく蘇ってくる。少年時代の彼が従弟と初めて出会う1936年、つまりはフランコ政権が成立する年と、フランコ政権末期の現在(74年)とを同一場面の中で共存させるという意図はわからなくもないが、中年男を演じるホセ・ルイス・ロペス・バスケスに、そのままの見た目で少年を演じさせているのはいくらなんでもグロテスクすぎるではないか。しかし、アンヘリカ(と、その数十年後の彼女の娘)を演じるリナ・カナレハスのロリータな魅力はなかなかのものだ。