明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ポール・ヴェキアリ『Femmes femmes』


ポール・ヴェキアリ(「ヴェッキアリ」という表記もあるが〔こちらの方がフランス語の綴り通り〕、どちらが正しいのか)の『Femmes femmes』を約20年ぶりぐらいに見直した。フランスに住んでいたときに図書館でビデオを(当時はもちろん DVD などなかった)借りて見たと思うのだが、ひょっとしたらテレビで見たのかもしれない。いずれにしろ、映画館で見たのでないのは確かだ。

この映画のことを知ったのは、その頃読んだジャン=クロード・ビエットの映画批評集『作家の詩学』によってだったと記憶している。この本の裏表紙に、パゾリーニの『ソドムの市』で『Femmes femmes』の一場面を演じるソニア・サヴィアンジュとエレーヌ・シュルジェールのスチール写真が使われているのを見れば、ビエットにとってこの映画がどれほど重要であったかを推し量ることができるだろう。

「『Femmes femmes』は、道しるべとなるような映画だったが、『ママと娼婦』とは違って、人には認められなかったため、知られざる古典となってしまった。見に行った人はわずかだったが、わたしは知っていた、この映画が扉を開いたことを、なによりも作家の自己満足に反対する一つの宣言であるということを。『Femmes femmes』は、演じることの悦びという、70年代の初めに人びとに好まれていた映画に欠けていた側面をもつ映画のほうへと向かう可能性を秘めていた。演じることの悦びという側面は、この映画の俳優たちを通して存在している。俳優がこの映画の内容であり、表現と文体を提示しているのである。どちらかというと演技の中立性によって特徴づけられていた時代のあとで、これは人びとが必要を感じていたことだった」(『作家の詩学』)

もう若くはない落ち目の女優二人がアパルトマンで共同生活をしている。キャメラはアパルトマンの中からほとんど出ることがなく、窓の外にひろがっているモンパルナス墓地だけがわずかに外の世界を垣間見させる。しかし、墓地のイメージにもまして死臭を漂わせているのは、壁にびっしり張り巡らされたガルボ、ディートリッヒ、ダニエル・ダリューミシェル・モルガンなどなどの30年代女優のブロマイド写真の数々だ。切り返しを一切用いず、ゆるやかなパノラミックの連続で撮られているこの映画の中で、物言わぬ写真だけがキャメラに向かって視線を投げかけてくる。彼女たちにたえず見られているような空気のなか、女ふたりのすべてが演技であるような日常が描かれてゆく。演じているふたりは、役名と同じ名前を持つ女優、ソニア・サヴィアンジュとエレーヌ・シュルジェールだ。この映画は、このふたりの女優を描いたドキュメンタリーでもある。『何がジェーンに起こったか?』を思わせるシチュエーションが、ときにベケットの演劇と交錯し、ときにミュージカルと化す。映画は、乞食同然となったふたりに遺産によって大金が舞い込み、ふたりが「ハッピーエンド」と声を合わせて歌うところで終わると思いきや、その後に、胸を締め付けるような悲痛な叫びのシーンがつづいて映画は終わる。

70年代に撮られた最も重要な映画という評価は、わたしが最初に見た20年前にすでにされていた。しかし、それに見合うような扱いを受けていないという点は、今になっても変わっていないようだ。モンテイロラウル・ルイスも、こうして日本で上映されるようになったのだから、ポール・ヴェキアリの作品がまとめて上映される機会がないとはいえない。それを期待しよう。そして、その時は、ぜひジャン=クロード・ビエットの作品も合わせて上映してもらいたいと思う。


「カルト映画と呼べるものは、10本もない。レオ・マッケリーの『邂逅』、ルノワールの『十字路の夜』、フォードの『周遊する蒸気船』、愛に身もだえするチャップリン(『街の灯』)。そこにラングとターナーの作品(『合理的疑いを越えて』『豹男』)を加えれば、ほぼ全部である。少数派のシネフィルによっては、これ以外の作品を挙げるものもいるだろうが、それは誤解に過ぎない。『Femmes femmes』を最初にテレビ放映したフレデリックミッテランは、この映画が、我を忘れるまでに観客を熱中させる──芸術と呼ばれるに値する作品とはそのようなものである──まれな作品の一つであることを、初めから気づいていた一人である。ジョルジュ・ストルーヴェによって、黒板にチョークで書くように撮影された夢幻的なドキュメンタリー、『Femmes femmes』(1974)が語るのは、孤独と演劇、つまりは映画のことである。この作品のふたりの女優、ソニア・サヴィアンジュとエレーヌ・シュルジェールが、この数ヶ月後、映画をいたく気に入ったパゾリーニによって『ソドムの市』のなかで起用されることは、うんざりするほど語られてきた。優雅で知的な人物だったが、パゾリーニは、映画監督としてよりも、戦闘的記号学者や詩人としての才能に恵まれていたのであり、『Femmes femmes』のように、暗くて唖然とさせる映画を撮ったことはなかった。『Femmes femmes』は、芸術と愛についての陰気な瞑想であり、チェット・ベイカーのスタンダード・ナンバー、ビリー・ホリデーのバラード、チャーリー・パーカーストラヴィンスキーふうソロと並ぶほどの妙技の作品なのである。」(ルイ・スコレッキ)