明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

レオンス・ペレについての覚書


レオンス・ペレ:

サイレント時代にフランスで活躍した映画俳優・監督。1880年、ドゥー‐セーヴル県ニオールに生まれる。

最初は舞台俳優として出発するが、やがて映画界に身を投じる。ゴーモンで、ルイ・フイヤード監督らのもと、いくつかの短篇に俳優として出演すると、ペレはすぐさま監督としても活躍しはじめる。かれの映画俳優としてのデビューと、監督としてのデビューはほぼ同時であり、また、その監督作品の多くで、ペレは自ら主役を演じている。1913年に始まる「レオンス」シリーズは、ペレが主演・監督した初期短篇の代表作である。

ところで、この1913年になるまで、フランスでは、映画監督や俳優の名前は、映画のクレジットに登場することはなかったと言われている。製作会社がそれを禁じていたのだ。自分の名前をクレジットに載せるよう、最初にゴーモンに認めさせたのがこのレオンス・ペレだった。そして、これをきっかけに、他の監督たちも彼にならったという。その意味では、かれはフランスで最初の映画監督=作家だったといっていいかもしれない。

やがてペレは、ゴーモンで、ルイ・フイヤードに次ぐナンバー2監督と目されるまでになる。しかし、それほどの監督にしては、日本での知名度はいささか低すぎるといわざるをえない。フランス版ウィキペディアにはペレについての非常に詳細な記述があるが、今のところ日本版にはレオンス・ペレの項目はない。

かくいうわたしも、つい最近、KINO から出ている『Gaumont Treasures: 1897-1913』という DVD に収められている2本の作品、『カドール岩場の謎』と『パリの子供』を見て、レオンス・ペレという作家を発見したばかりなのだ。

『カドール岩場の謎』(Le Mystère des roches de Kador, 12)

資産家の娘が相続する遺産をめぐる犯罪劇。彼女が成人するまでのあいだ後見人をつとめることになっている男が、遺産を手に入れようとあれこれ画策する。タイトルとなってるほどのミステリーはないのだが、面白いのは後半の展開だ。男によって目の前で自分の恋人が撃たれるのを見て、娘はショック状態に陥ってしまう。医者は、彼女を治療するために、そのときの光景を役者を使って再現した映画を作り、それを彼女に見せる。娘は映画を見たショックでふたたび記憶を取り戻す。

再現フィルムを見た娘が、真っ白なスクリーンを前にしてのけぞるイメージを見て、おや、この場面はどこかで見たことがあるぞ、と思う。そうだ、このシーンは『ゴダールの映画史』のなかで引用されていたのだった。『映画史』に出てくるこの実にインパクトのあるイメージははっきりと覚えていたが、それとレオンス・ペレという名前は、この映画を見るまで全然結びつかなかったので、不意を突かれた。

それにしても、映画のなかに映画が出てくること自体、この時代では珍しい。しかも、映画が治療のために使われるというのは、希有の例ではないだろうか。このシーンのためだけでも、この映画は見るに値する。わたしはレオンス・ペレの短篇をほとんど見ていない(どこかで見たことがあるかもしれないが、思い出せない)ので知らないのだが、『Gaumont Treasures』の特典映像に入っているドキュメンタリーを見ると、ペレは映画のなかに、映画が上映される光景や、映画を見る観客の様子を、好んで描くことがあったみたいである。これもまた、同時代の監督たちとくらべてこの映画作家のユニークだった点の一つであるといっていいようだ。


『パリの子供』(13)

戦争で父親を亡くし、孤児院に入れられた少女が、そこを抜け出したあと、悪党たちに誘拐されてしまう。死んだと思われていた父親は、実は生きていて、英雄として帰国し、必死で娘を捜し回る……。

ディケンズふうというか、『レ・ミゼラブル』ふうというか、物語は紋切り型のメロドラマだといっていいだろう。しかし、それを語る語り口は実に巧みだ。この映画が撮られた1913年という年代を考えると、ここで使われている映画テクニックのレベルは驚異的であるといってもいいかもしれない。

「ペレは、モンタージュのあらゆる可能性、様々なショット、逆光、キャメラマンのスペヒトによる非常に美しい撮影などなどを、実に見事に使いこなしている。凡庸なシナリオをもとに、レオンス・ペレは、洗練された映画の語彙を駆使して、ストーリーを滑らかでスピーディに語ることができた。逆光、クロースアップ、仰角撮影、移動撮影、その他無数の革新的なテクニックをペレは見事に用いており、これは、ルイ・フイヤードの古典的で簡潔なスタイルや、当時はまだはっきりとは見て取れなかったD・W・グリフィスのある種のプリミティヴ主義とは、対照をなすものだ。ペレは、フランスの当時のテクニックが、アメリカのそれを上回っていたことを示している。」(ジョルジュ・サドゥール)

たしかに、1913年といえば、グリフィスがまだ最初の長編『ベッスリアの女王』(長編といってもほぼ1時間の作品だが)を撮る前だし、それを考えると、この2時間を超える長編(16 fps で124分)を、よどみなく語る手際は、注目に値する。

しかし、わたしが『パリの子供』を見てなによりも驚いたのは、その繊細な照明の使い方だ。たとえば、グリフィスの場合(とりわけ初期の短篇では)、室内シーンと室外シーンははっきりと断絶しているのがふつうで、そこに窓らしきものが見えていても、それはきまって閉じられている。窓が内と外を通底させる瞬間など皆無だといっていい。泥棒が窓から侵入するといった場面でさえ、グリフィス作品では、室外のショットと室内のショットは、完全に断絶した形で示される。透明なガラス窓を通して、室内に外の光が差し込むなどといったショットは、少なくとも初期のグリフィス作品にはないはずである(まあ、全部見たわけではないのだが)。

ところが、『パリの子供』では、セットではなく実際の部屋を使って、背後の窓から差し込む光で人物を逆光で浮かび上がらせるといったことまでやっているのだ。あるいは、ガラス窓を挟んで、手前と奥の二つの部屋があり、手前の部屋は真っ暗で、奥の部屋だけ明かりがともっていて、そこで人物が動き回っている様子をガラス窓を通して見せるといったショットなど、同時代としては非常に珍しいものではないだろうか。



この繊細で、表情豊かなライティングは、グリフィスよりもむしろ、ロシアの初期サイレント映画の巨匠エフゲニー・バウエルのような作家の作品と比較すべきものだろう。バウエルもまた、光に対する希有な感受性を持っていた映画作家だった。

ルイ・フイヤードもまた、『ファントマ』や『ジュデックス』のまれな瞬間において、ガラス窓や、玄関の開かれたドアを通してそそぎこむ外光によって、建物の内と外を通底させることがあった。これはレオンス・ペレの影響を受けてのことだったのか。いずれにせよ、照明の繊細さという点では、フイヤードの作品はペレのそれよりも劣っていたように思う。


『パリの子供』を撮った数年後の1917年、ペレはアメリカに渡り、そこで成功を収めたあと、20年代初めにふたたびフランスに帰国して、映画を撮り続け、1935年にパリで亡くなった。55才という若さだった。



追記
情報によると、フランスで出ているゴーモンの DVD-BOX『Gaumont : Le Cinéma premier (1907-1916) - Vol. 2』には、レオンス・ペレの短篇が多数収録されているようだ。持っていないので、字幕の有無とかはわからないが、ペレの短篇をたくさんみたい人にはこっちを買ったほうが正解かもしれない。