明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。































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神戸映画資料館でわたしが行っている「連続講座:20世紀傑作映画 再(発)見」の詳細が決まりました。

「連続講座:20世紀傑作映画 再(発)見
第8回 パプストとブルックス──『パンドラの箱』を読み解く」
2019年12月22日(日)
詳細はここで。
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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

エリック・フォトリノ『光の子供』──映画のキスから生まれた子供の物語


「私は自分の生まれについてほとんど何も知らない。パリで生まれたことは知っているが、母は誰かわからず、父はただひたすら女優のスナップを撮り続けていた。そして息を引き取る少し前、私が映画のキスから生まれたことを打ち明けた。」

冒頭2ページ目に現れるこのフレーズが、この小説の本質的な部分を要約している。主人公であり、語り手でもある人物、ジル・エクトールは、ヌーヴェル・ヴァーグ映画の撮影技師だった亡き父ジャンが、おそらく映画の撮影中に出会ったはずの女優が母親であると信じて、自分が生まれた頃(60年代)に撮られたヌーヴェル・ヴァーグ作品が上映されているパリの映画館に、フィルムに刻まれた母の姿を探し求めて通い詰める(フィルムの中に父親の姿を探すセルジュ・ダネーを意識した?)。

そんなふうにして、映画館でルイ・マルの『恋人たち』を見ていた時(予定では『モード家の一夜』が上映されるはずだったのだが)、かれは謎めいた女性マイリスと出会い、たちまち恋に落ちる。マイリスは実は人妻だったが、二人はそんなことにはお構いなく逢瀬を重ねてゆく。だが、ふっと現れては消えるマイリスの存在はいつまでたってもつかみ所のないままだ。

物語(といえるほどはっきりした物語はないのだが)は、この「ママと娼婦」とでもいうべきふたりの女性をアリアドネの糸にして紡がれてゆき、最後に、幻のようにこのふたりが溶け合う瞬間、どちらも主人公の前からフェイドアウトすると同時に、物語も終わりを迎える。

とまあ、乱暴にまとめるとそんな風な話になるだろうか。しかし、この小説における本当の中心は、少なくとももっとも魅力的な存在は、この小説が始まった時にはすでに亡くなっている主人公の父親であると言っていい。


「父は映画スタジオの写真家だった」という言葉でこの小説は始まる。映画スタジオの写真家 "photographe de plateau" というのは、映画の撮影とは別に、あるいはそれと平行して、現場のスナップショットを撮ったり、俳優の顔写真を撮ったりする人のことで、その写真はポスターや雑誌などの宣伝媒体で使われたり、場合によっては、写真集にまとめられたりもする。ただ、読み進めていくうちに、主人公の父親ジャン・エクトールは、映画スタジオの写真家であっただけでなく、いわゆる撮影監督 "chef operateur" でもあったらしいことがわかってくるのだが、そのあたりについてはあまりちゃんとした説明がなかったように思う。

それはともかく、主人公の記憶の中に現れるこの父親、「彼の人生は《光》が全てで、寝ても覚めても光のことしか考えていなかった」と主人公の語るこの撮影技師の言葉がなかなかに興味深い。


「映画には夜がない」ジャンはよくそう言っていた。
「観客は視覚を研ぎ澄ませてスクリーンを見なくちゃいけないのに、フランス映画に出てくる夜のシーンはいつも青みがかっている。フランス人に想像力がないからだ」

というようなエピソードが随所に出てきて、映画好きを楽しませてくれるのである。


ところで、このジャン・エクトールという人物は、『モード家の一夜』『突然炎のごとく』『野生の少年』『ぼくの小さな恋人たち』などなど、さらには『キューバ・シ』でクリス・マルケルとも仕事をしたことになっている。それどころか、フランス映画だけにとどまらず、『甘い生活』の頃のフェリーニとも組んだことがあるという。むろん、そのような撮影監督は実在しないから、この人物は、様々な撮影監督よりなるアマルガムということになるはずなのだが、奇妙なことに、訳者後書きでは、この大事な点には全くふれられていない。原作の最後のページにオマージュとして、アンリ・アルカンネストール・アルメンドロスギスラン・クロケラウール・クタールアンリ・ドカエなどなど、30数名にも及ぶ撮影監督の名前が挙げられているので、それで事足りると思ったのだろうか。

しかし、これらの撮影監督たちが撮る映像は十人十色で、それぞれにはっきりした個性がある。それを一人の人物にまとめるというのは、彼らに対する、何よりも彼らがフィルムに定着させた光に対する裏切りのような気がしないでもない。それがこの小説を読んでいて覚えた大きな疑念の一つである。

納得のいかないところは他にもいろいろある。この小説には、ほとんど毎ページと言っていいぐらいに映画のタイトルが登場するのだが、そのほとんどはヌーヴェル・ヴァーグの作品である。この小説が、フィルムの中に自分の母親かもしれない女優の姿を探す物語であるからには、アメリカ映画の話がほとんど出てこないのは仕方がないし、主人公の父親がヌーヴェル・ヴァーグの映画ばかり撮っていたという設定なのだから、ヌーヴェル・ヴァーグの作品しか出てこないというのもわかる。しかし、この小説に出てくるヌーヴェル・ヴァーグ映画作家たちというのは、トリュフォーロメールユスターシュなどが中心で、後はシャブロルなどの名前がほんの数回出てくるぐらいだ。ヌーヴェル・ヴァーグの作家たちの中でもどちらかというと〈軟派〉な、といって悪ければ、〈ロマネスクな〉作家たちばかりで、私の記憶が正しければ、この小説の中にはゴダールの名前も、リヴェットの名前も、一度として登場しない。

これはわたしが嫌いなタイプの(というとまずいので、わたしとは話が合わないタイプのといい直しておく)〈フランス映画好き〉と姿が重なってくるわけで、読み始めて割と早い段階から感じていた違和感は、結局最後までぬぐえなかった。

そもそも、アメリカ映画の話をせずにヌーヴェル・ヴァーグについて語るというのが間違いだと思うのだが、そういう意味では小説のかなり終わり間際に出てくるジョージ・キューカーのエピソードはちょっと面白かった(オードリー・ヘップバーン──これもいかにもという平凡な選択──の話などと並ぶ、この小説におけるアメリカ映画についての数少ない言及の一つ)。

「《見る》という行為はそもそもなんなのだろう? 父はジョージ・キューカーのエピソードを教えてくれた。彼は50年代、数十名もの無名若手俳優のオーディションをしていた。ジョージ・キューカーはまだ当時知られていないゲイリー・クーパーという名の男が自分の前を通っても見向きもしなかった。ジョージ・キューカーが初めて心を動かされたのは、実は自分で撮ったフィルムを映写した時だった。ゲイリー・クーパーはスクリーンにまぎれもなく確かにいた。キューカーは本当の意味で《見る》ことなく見ていたことに戸惑いを覚えながら、クーパーを直ちに呼び戻した。」


読む前は、タイトルからもっと哲学的な、あるいは瞑想的な小説を期待していたのだが、肝心の〈光〉について書かれている部分にはさして深みが感じられないし、単なる知識面においても、読んでいて映画について教えられることはあまりなかった。

この小説は、テーマとかスタイルの点でモディアノの小説とよく比較されるようだ(パリという街が第2の主人公であるように描かれているところとか、推理小説的な〈謎〉の探求とか)。たしかに読んでいて近いものは感じた。実は、わたしはそれほどモディアノの小説を評価してはいないのだが(まあ、あんまり読んではいないのだけれど)、しかし、これと比べればモディアノの小説のほうが数段上だというのが正直な感想である。

「フランス映画ってなんだかオシャレ」とか、「パリが好き!」という人が読めばそれなりに楽しめ、ひょっとしたら大好きになる小説かもしれないが、わたしのようなすれっからしのシネフィルを唸らせるような小説ではなかったし、映画とは関係なく、単なる小説としてみても、それほどのものとは思えなかった。だから、『舞踏会に向かう三人の農夫』(あれは写真をめぐる物語だったが)クラスの小説を期待して読むと、ちょっとがっかりするかもしれない。

しかし、まあ、映画好きが読めばそれなりに興味深い小説ではあるし、読んで損はないと思う。


フォトリノは本作で2007年にフェミナ賞を受賞した。