明るい部屋:映画についての覚書

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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

アレクサンダー・マッケンドリック『The Maggie』と異世界としてのスコットランド



アレクサンダー・マッケンドリック『The Maggie』(54)
★★★


マッケンドリックがイーリング・スタジオで撮ったコメディ。残念ながら日本では未公開で、『マダムと泥棒』などと比べるとあまり知られていない作品ではあるが、マッケンドリックを代表する傑作のひとつである。


この映画は、マッケンドリックのもう一つの傑作コメディ、『Whiskey Galore』ととても共通する部分があって、ほとんど姉妹作といいたくなるほどだ。といっても、ストーリー的に似ているという意味ではない。似ているのは、その背景とテーマである。

スコットランド沖で難破した船からウィスキーを根こそぎ盗み出そうとする村民たちの悪戦苦闘と、かれらと英国国防市民軍の指揮官との騙し合い(そこに、主人公の結婚問題やら何やらがいろいろと絡んでくる)をコミカルに描く『Whiskey Galore』は、スコットランドという異世界とその住民たちの魅力をたっぷりと描いた作品だった。



『The Maggie』が描くのもまたスコットランドの世界であるが、この映画は、この土地の生活や風習とはまったく正反対のアメリカ人のビジネスマンを登場させることによって、〈スコットランド的なもの〉をよりいっそう鮮やかに浮かび上がらせているといえる(もっとも、ここに描かれる〈スコットランド的なもの〉が、本当にスコットランドの現実を反映しているものなのかどうかは、正直、わたしにはよくわからないのだが)。


『Whiskey Galore』と同じく、この映画にも船が登場し、危うく難破しそうにさえなるところまで同じである。しかし、『Whiskey Galore』があくまで島の住民たちの側から描かれていたのに対し、『The Maggie』では、逆に、船の側から物語が語られてゆく。タイトルの「The Maggie」とは、実は、この映画に出てくるおんぼろ蒸気船("puffer")の名前である。誰からも馬鹿にされ、笑われるこの船が、実はスコットランドの魂とでも呼ぶべき存在であることが最後に理解されてくる。そんな映画なのだ。


物語は、このスコットランドのおんぼろ船が港に入ってくるところから始まる。この船のいかにも一癖ありそうな老齢の船長マクタガートは、船のライセンスを更新するための金がなくて、やっきになってた。彼がそのことで海運事業事務所を訪れていたとき、偶然そこに、船を探しに一人のイギリス人がやってくる。彼はあるアメリカ人のビジネスマンに雇われていて、このビジネスマンが新居に家具などを運ぶための船を調達しに来ていたのだが、船が見つからずに困っていた。これはチャンスだと思ったマクタガート船長は、船ならあると話を持ちかける。イギリス人は、港で「The Maggie」の隣に泊まっていた立派な船を船長のものだと勘違いして、「The Maggie」をチャーターすることを決めてしまう。

こうして、「The Maggie」は、アメリカ人のビジネスマン、カルヴィン・B・マーシャル(ポール・ダグラス)の高価な積荷を載せて、スコットランドのとある島を目指すことになるのだが、自分の荷物がおんぼろ船に載せられたことにすぐに気づいたアメリカ人ビジネスマンは、すぐにも積荷を別の船に積み替えるように部下のイギリス人に指示を出す。ところが、このイギリス人の部下が間抜けで、「The Maggie」の船長や乗組員に簡単にあしらわれてしまう。業を煮やしたアメリカ人ビジネスマンは、飛行機で船に追いつき、船長に積荷を降ろすように言うのだが、船長らはのらりくらりと、あの手この手で、話をそらし、ごまかして、ビジネスマンを翻弄する。最初は自信満々だったアメリカ人ビジネスマンは、次第に自信をなくしてゆき、最後には、事態を自分の手でコントロールすることは不可能だとあきらめてしまう。彼は、この短い旅の間に、大げさではなく、文字通り自己のアイデンティティを喪失しそうになりさえするのだ。

アメリカ人ビジネスマンが、途中の小さな船着場で「The Maggie」から積荷を降ろさせ、それを積み替える別の船が到着するのを待っていると、桟橋に横付けにしていた「The Maggie」が満ち潮でせり上がったために、もともと崩れかけていた桟橋が船に押し上げられて崩落してしまう(船長と乗組員たちは、そうなることに気づいていながら、くすくすと笑いながら事態を眺めているだけだ)。これで、別の船が到着しても、桟橋が崩れてしまったために積荷を載せかえることはできなくなってしまった。そこに、待っていた船が到着し、降りてきた船長がアメリカ人ビジネスマンに、「あなたがマーシャルさんですか」とたずねると、アメリカ人は途方にくれたようにこう答えるのだ。"I am no longer absolutely sure."

たしかに、部外者(ストレンジャー)にとって、スコットランドという土地は異世界のようなものに思えるに違いない。それがこの映画の中では、イーリング・コメディ独特の論理によってさらに誇張されて、独自の世界に作り上げられ、『Whiskey Galore』以上に抱腹絶倒の笑いを生む一方で、時としてまるで悪夢のようにたち現れてくる。だから、誰だったか忘れたが、この映画を他のイーリング・コメディの作品よりも、例えば『ウィッカーマン』のような作品に近い映画だと指摘していたのはあながち的外れではないと思う。

よくあるアメリカ映画ならば、この悪夢のような世界の中でアイデンティティを喪失してしまった主人公が、新しい人間として生まれ変わるところで映画が終わるというのが定石だろう。しかし、マッケンドリックはそれほど甘くはない。たしかに、アメリカ人ビジネスマンは、この船旅の中で、スピードと功利性、そして金という彼が信じていたものすべてが崩れ去ってゆくのを眼にする。いくら急がせても、船長は隙を見ては酒場に行って酔っ払う。金に執着しているように見えた船長の妹(実は彼女が「The Maggie」の所有者)は、結局、船を売ることを拒み、アメリカ人を唖然とさせる。暇があったら電話ばかりしているアメリカ人を見て誰かがこういう。「あんなに電話ばかりしているやつは見たことがない」(携帯電話がなくては生きていけない人間には、耳がいたい、あるいは理解しがたいせりふかもしれない)。ここではすべてがアメリカ式とは正反対なのだ。


ところで、アメリカ人がそんな風に始終電話をかけている相手は、彼の奥さんであるのだが、彼女の声は観客にはまったく聞こえない。せいぜい、電話口でのアメリカ人の短いせりふから、どうやら夫婦の関係がうまくいっていないらしいことがわかるぐらいだ。そもそもアメリカ人が船で運ばせようとしている積荷は、奥さんへのプレゼントなのだが、結局、彼女は最後まで画面に一度として姿を現すことはない。

あるとき、アメリカ人ビジネスマンは、100歳になったスコットランドの老人の誕生パーティに無理やり連れて行かれるのだが、この場面で、アメリカ人ビジネスマンと彼の妻との関係がようやくぼんやりと見えてくる(この場面は、スコットランド人の共同体意識とでもいったものを知る上でも重要である)。彼は最初いやいや参加するのだが、幸せに満ちた光景を見るうちに次第に笑みがこぼれ、やがて一人の若い娘と楽しそうに踊りはじめさえする。彼女には今、結婚を考えている相手が二人いるという。一人は将来が約束された青年実業家。もう一人は貧乏な船乗りだ。アメリカ人ビジネスマンは、それなら迷うことはない、青年実業家を選ぶべきだと言うのだが、彼女はこう答える。たしかに彼と結婚すれば生活は安定するかもしれない。でも、忙しい彼とは一緒にいられる時間はあまりないだろう。漁師の青年はたしかに貧しいかもしれないが、船を下りているときはいつでも自分と一緒にいてくれる。だからわたしは彼と結婚するのだ、と。

アメリカ人は彼女が話すのをただ聞いているだけなのだが、その表情や短い受け答えの台詞から、彼と妻との関係が仄見えてくる。おそらく彼の妻も、安定した生活と引き換えに、夫との幸せな時間を失ってしまったのだろう。そして、今まさに彼は、高価なプレゼントというまたしても物質的なもので妻を喜ばせようとしているのだが、果たしてそれは本当に彼女にとってうれしいことなのか。マッケンドリックはそんなアメリカ人の心のうちを、台詞を使って語らせたりはしない。アメリカ人ビジネスマンの妻は画面に一度として登場しないし、彼も彼女のことをほとんどまったく語らないのだが、そんなふたりの関係を、直接的な台詞を使わずに観客にわからせていく、マッケンドリックの手腕はなかなかに見事だ。

ようやく目的地に近づいたとき、「The Maggie」は危うく座礁しそうになる。そのとき、驚いたことに、アメリカ人は、あれほど大切にしていた積荷をすべて海に投げ捨てるように船長に言う。こうして彼は、船を軽くして座礁から免れさせるのだ。彼は生まれ変わったのか? 平凡な映画なら、彼が新居で妻と抱き合ってキスする姿でも見せてそう確信させて終わるところだろうが、マッケンドリックは、ほとんど言葉を交わすこともなく、ただ船長と握手して、手ぶらで新居に向かってゆくアメリカ人ビジネスマンの後ろ姿を見せるだけだ。

映画は最後に、冒頭の場面と同じ港からでていく船の姿を見せて終わる。しかし、船の名前はもはや「The Maggie」ではない。船には、アメリカ人ビジネスマンから取った「カルヴィン・B・マーシャル号」という新しい名前が刻まれているのだ。洒落た終わり方である。


***


アメリカ式との闘いとローカル・コミュニティの存在をコミカルに描いた作品という意味では、ジャック・タチの『のんき大将』などとの比較も可能かもしれない。


この「〈スコットランド〉映画」とでも呼ぶべきものは、たとえば『ローカル・ヒーロー/夢に生きた男』のビル・フォーサイスなどを通じて確実に受け継がれている。