明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

"Martin Scorsese’s World Cinema Project" 『Touki bouki』『野性のもだえ』


World Cinema Project は、世界中の周縁的かつ重要な映画作品(とりわけ映画アーカイヴが充実していない国の作品)を、修復保存し、かつ世界中で上映していくことを目的として、2007年にマーチン・スコセッシによって設立されたプロジェクトである。

そうやって修復された映画は、当然のことながら、DVD や Blu-ray のかたちでソフト化されてもいる。クライテリオンから出た BOX セット "Martin Scorsese’s World Cinema Project"(DVD と Blu-ra のデュアル・エディション)には、このプロジェクトで修復された6本の作品が収められている。セネガル映画『Touki bouki』、メキシコ映画『網 Redes』、インド映画『ティタスという名の河』、トルコ映画『野性のもだえ』、モロッコ映画『Trances』、韓国映画『下女』の6作品である。



まずはジブリル・ディオップ・マンベティの『Touki bouki』とメティン・エルクサンの『野性のもだえ』だけを紹介する。

ジブリル・ディオップ・マンベティ『Touki bouki』72


セネガル映画、いやアフリカ映画におけるもっとも重要な作家の一人でありながら、ジブリル・ディオップ・マンベティの名前は、ウスマン・センベーヌやスレイマン・シセなどとくらべると、これまであまりにも長い間、不当にも忘れ去られていたといっていい。20代で映画を撮り始めたものの、長編第一作『Touki bouki』を完成後、20年以上も沈黙しつづけ、80年代の終わりにようやく活動を再開したとおもったら、その数年後に、わずか50歳なかばで肺ガンでなくなってしまった彼のフィルモグラフィーには、長短篇合わせて数本の作品しか存在しない。そして、そのいずれもが、まれにしか上映されることはなかった。

スコセッシのプロジェクトによって『Touki bouki』は鮮やかな色彩とともに甦り、ソフト化もされて、マンベティの名前をそれまで以上に世に知らしめることになった。それでもいまだに日本では、マンベティはセンベーヌやシセほどの知名度を得るには至っていない。


『トゥキ・ブゥキ/ハイエナの旅』は、いわばジャン・ルーシュによってリメイクされた『気狂いピエロ』とでも呼ぶべき作品である。冒頭、屠殺場の床を真っ赤に染める獣の血。この映画では「動物は一匹も犠牲にされていない」どころか、流れ出る血はすべて本物のはずだ。少なくとも、そんなふうに思わせる(マンベティはジョルジュ・フランジュの『獣の血』を見たのだろうか)。マンベティにはフランスのヌーヴェル・ヴァーグの血が流れ込んでいるに違いない。映画に描かれるのは、パリを夢見て、そのチケットを手に入れるために、犯罪を繰り返す若いカップルの逃避行だ。しかしストーリーを語ったところで何も説明したことにはならない。キャメラの奔放な動き、ジャンプ・カットを多用した大胆な編集、伝統的なアフリカ音楽と現代音楽(ジョゼフィン・ベイカー!)を併用するやりかた、現実のシーンと地続きで現れる夢のシーンなどなど。この映画がそれまでのアフリカ映画とは一線を画し、今も人を魅了するのは、このフォルムの新しさである。

『Touki bouki』はたしかに政治的な映画ではないが、それはこの映画がセネガルの現実とは無縁のところで作られているということを意味するわけではない。しかし、そのあたりについて考えるためには、この映画が「権力と愚かさについて」と題された3部作の1作目であり、その第2作目である『ハイエナ』を撮ったあとで、結局、3作目を完成させることなくマンベティが亡くなってしまったということを、頭に入れておかなければならないだろう。『ハイエナ』はアルフレッド・デュレンマットの戯曲『貴婦人故郷に帰る』を原作としつつも、あきらかに『トゥキ・ブゥキ』の続編として構想されていたようだ。『ハイエナ』を見ることで『Touki bouki』の見方もまた変わってくるように思えるのだが、残念ながらまだ見る機会がない。



メティン・エルクサン『野性のもだえ』(Susuz yaz, 63)

トルコ映画。監督名は allcinema などでは「イスマイル・メチン」となっているが、世界的には Metin Erksan という名前で通っている(「イスマイル・メチン」は彼の出生名 İsmail Metin Karamanbey)。

40年代に映画批評家として活動した後、52年に監督デビュー。当時のトルコ映画の多くがそうだったように、エジプトのメロドラマやアメリカのジャンル映画を模倣した作品を作る一方で、もっとトルコの現実に即した映画を制作し、しばしば当局の検閲に苦しめられる。

『野性のもだえ』はベルリン映画祭に出品されて金熊賞を受賞し、エルクサンの名を世に知らしめた。70年代に入ってからは商業ベースに乗った作品を多数発表し、なかには、フリードキンの『エクソシスト』をリメイクした作品まであった。82年に引退するまでに42本の映画を監督し、うち29本は自ら脚本を書いた。2012年に死去。


『野性のもだえ』は、海外では "Dry Summer" のタイトルで知られる。邦題はいささか扇情的なものになっているが、実は、あながち映画の内容からほど遠いというわけでもない。

映画の舞台となっているのはトルコのアナトリア地方。ヌリ・ビュルゲ・ジェイランの『かつて、アナトリアで』と同じ地方だが、見て受ける印象はかなり違う。あれはあまり生活臭の感じられない映画だったが、『野性のもだえ』に描かれるのは、いろんな意味で泥臭い世界である。

この地方の農民たちにとって、水は命であり、とりわけ日照りの季節には、文字通り水が死活問題となる(「水は大地の血だ」)。その水を、唯一の水源である川の上流に住む兄弟のうち、利己的で野獣のような兄のほうが、堰き止めて独占したことから、兄弟一家と川下に住む農民たちの間に不穏な空気が流れ始める。弟のほうは、兄と違って話が分かり、自分たちの田畑に必要な水がいかなくなっても構わないから、水を他の農民たちに分け与えようと考えるのだが、兄はそれを絶対許さない。やがて、農民たちの一部がどうにも我慢ができなくなって、兄を殺そうと襲撃するが、結局失敗する。

弟の若くて美しい妻に、兄がずっと欲情を抱きつづけていることが事態をさらに混乱させる。またしても自分を襲ってきた農民の一人を殺してしまった兄は、弟に自分の身代わりになってくれと頼む。そして、弟が遠く離れた監獄に投獄されると、弟が妻に宛てた便りを全部隠し、なんとか彼女を寝取ろうと企む。やがて、弟が獄中で亡くなったという誤った噂が流れ、兄は嘆き悲しむ弟の妻を強引に自分のものにしてしまう。そこに、実は生きていた弟が帰って来、ついには兄弟通しの殺し合いが始まる……。

とまあ、ざっとストーリーを説明しただけでも、ドロドロとした話だということが分かるだろう。メキシコ時代のブニュエル自然主義とグル・ダッドのメロドラマを足して2で割ったような、そんな映画だといえばわかりやすいだろうか。実はそれほど期待していなかったのだが、見はじめるとそのパワフルな世界にすぐに引き込まれてしまった。とにかく面白い。

実際の農民たちをエキストラに使ったネオリアリズムふうのスタイルが取られている一方で、どこかシュールなおとぎ話のような雰囲気も漂わせている作品である。弟の妻に欲情し、壁の隙間からのぞき見たり、ついには田んぼの案山子を彼女に見立ててプロポーズまでする兄の描写は、グロテスクであると同時に滑稽でもある。このエルクサン映画の倒錯的な部分はこの後の作品でさらに顕在化していくように思えるのだが、わたしが実際に見たのはこの映画だけなので、そのあたりのことはただ推測するしかない。