明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

『メサイア・オブ・デッド』


ウィラード・ハイク&グロリア・カッツ『メサイア・オブ・デッド』(Messiah of Evil: the Second Coming, 73)
★★★


ジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』の発表直後にその流れに乗って撮られたB級、あるいはC級ホラー映画の代表的な作品。

監督のウィラード・ハイクとグロリア・カッツは『アメリカン・グラフィティ』や『インディー・ジョーンズ/魔宮の伝説』などの脚本で知られる夫婦コンビで、監督作としては『ハワード・ザ・ダック/暗黒魔王の陰謀 』が有名だが、結局、この『メサイア・オブ・デッド』を超える作品を残すことはなかったと言っていいだろう。特に出来がいいわけではなく、むしろチープで、お粗末な作品といってもいいくらいなのだが、わたしはこの映画が好きだ。ジャン・ローランの最良の作品やマリオ・バーヴァの映画にも似た、シュールで不気味で謎めいた雰囲気が漂っていて、いくつもあるツッコミどころも見ているうちに忘れてしまう不思議な魅力がこの映画にはある。

映画は、精神病院に収容されているヒロインが、自分の体験した奇妙な出来事を回想していくかたちで始まる(このオープニングはドン・シーゲル版『ボディ・スナッチャー』を思い出させるもので、最後にまたこの精神病院に帰ってくるかたちで映画は終わるのだろうという予想も、むろん的中する)。

彼女は、父親から謎めいた手紙をもらって心配になり、彼の住む田舎町を訪ねたのだったが、父親は不在だった。彼が残した日記には、意味不明で信じがたいことが綴られている。どうやら、この町の住人たちは人を襲って食べているらしい。彼女が町で知り合った何人かも、次々と彼らに襲われて殺されてゆく……。

こういうシチュエーションのホラーは、今となっては珍しくもない。直接的にはロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』の影響が明らかだし、ハーシェル・ゴードン・ルイスの『2000人の狂人』(64) あたりも参照されているのかもしれない。『恐怖の足跡』からパクったような部分もある。当時ならともかく、今見ると、あまりオリジナリティが感じられない作品に見えるかもしれない。強いてあげるならば、原題になっている "messiah of evil" あるいは "dark stranger" などと呼ばれる人物が100年ぶりに帰ってきて(彼は海から現れると信じられている)、ゾンビ化した町の住人たちを導いてくれるはずという、作中で何度も語られる〈伝説〉に、ラブクラフトの影響が見られるところが興味深いということぐらいか(ちなみに、映画の最後でヒロインと行動を共にする男とこの〈悪のメサイア〉のあいだに関係があったことを示す、あるいは同一人物であることを示す場面が撮られていたが、カットされてしまったらしい)。

物語の展開もさほどスリリングなわけではなく、そもそもこの映画では何もかもがまったく説明されずに終わるので、見終わってもフラストレーションがたまったままという観客も少なくないだろう。たしかにそうなのだが、何もかもが曖昧なままというのが、この映画の魅力であることもまたたしかである。

先が読めないストーリー展開を期待してこの映画を見れば、ちょっとがっかりするかもしれない。しかし、この映画の魅力は物語にではなく、全編に漂う怪しい雰囲気にある。特筆すべきなのは、ヒロインの父親が住んでいて、今は彼女がひとりで寝泊まりしている海辺の別荘の舞台装置だ。壁一面に描かれたウォーホルのポップアート風の人物画(背広を着た男たちの立ち姿をスーパーリアリズムで描いたもの)が、独特の雰囲気を作り上げていて、これがこの映画にリアリティと同時に非現実感をもたらすのに絶大な効果を発揮している(この絵を描いたのは、グロリア・カッツの同僚らしい)。高い天井すれすれにある半透明の窓にゾンビの影がちらちらと映るところもいい。

シチュエーションにオリジナリティはないといったが、実は、この映画が初めてやったこともある。スーパーマーケットでゾンビに人が襲われる場面は、ロメロの『ゾンビ』を先取りしている貴重な場面と言えるだろう。映画館で、西部劇(マカロニ・ウェスタンの英語吹き替え版?)を見ていた人物がふと後ろを振り返ると、客席が全部ゾンビで埋まっているというシーンも忘れがたい。


さて、問題は、この映画をゾンビ映画と考えていいのかどうかといことだ。便宜上〈ゾンビ〉という言葉を何度か使ったが、この映画で人間を喰う町の住民たちは、はたして本当にゾンビと言えるのか。彼らは吸血鬼のようでもあり、ゾンビのようでもあり、またグール(悪鬼)のようでもある。そもそも彼らは生きているのか、死んでいるのか。それさえも映画のなかでは何も説明されていない。ゾンビ化した人間が言葉を話す場面もあるし、ゾンビ原理主義者(?)が見たら首をかしげる部分も少なくないだろう。しかし、この作品がゾンビ映画として作られたかどうかもそもそも定かではないし、たとえそうだとしても、それでこの映画の魅力がいささかも減じるわけではない。これはゾンビ映画ではないからダメだとしたり顔でいう奴がいるかもしれないが、そんな奴のことは放っておいて素直に楽しめばいいのだ。わたしは楽しんだ。


幸い、この作品は日本でも DVD 化されているが、あまり画質は良くないようだ。ひょっとしたらサイズも正しくないかもしれない(オリジナルはシネスコ)。