明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

『ヌーヴェル・ヴァーグの時代』

昨日の続き。この『ヌーヴェル・ヴァーグの時代』という本はほんとにすごい。次から次へと意味不明の文章の連続だ。リヴェットの文章につづいて、今度はアンドレ・S・ラバルトが書いたクロード・シャブロル『気のいい女たち』論を読んでみた。のっけからわけがわからない。


「すべてはうまくいっている。これがシャブロルの最高作だった、「彼の限界に」(シュブリエ)達した作品だったと認めたものは、自分の論法の限界に達することができなかったのだ。」


なにが「うまくいってる」というのか。少なくとも、この翻訳はまったくうまくいっていない。上の部分は試訳では次のようになる:


「この作品がシャブロルの最高傑作だ、シャブロルは「自分自身の限界までいった」(シュブリエ)のだと認めた批評家たち自身は、自分たちの論法を限界まで押し進めることができなかったかのように、万事が運んでいるのだ。」


その少し先には、


「それぞれの主張が、この映画を規定する際、展開され、復権され、おそらくその能動態へと転じたにもかかわらず、この映画への非難をはぐくんだのだ。」


わたしの頭が悪いんだろうか。意味がさっぱりわからない。そのまた少し先の部分も意味不明だ。


「確かに作家の映画だが、本当に、映画作家たちは自分たちを何よりも、ある言語を進歩させる作家と自己規定しているのだろうか? 私はむしろ、彼らは自分の進歩を利用するのだが、彼らは自己規定しないし、するとしてもかなり根拠の薄弱な尺度においてのみだと考えている。」


「自己規定」とか、難しい言葉で煙に巻こうとしたってだめだ。読者をなめるなといいたい。ここは拙訳では次のようになる:


「確かに作家の映画ではある。しかし、本当に、(映画)言語を進化させるのは、何よりも自分を作家として任じているシネアストたちなのであろうか。わたしはむしろ、そうしたシネアストたちは、(映画)言語の進化を利用するのであって、自らこの言語の進化を決定づけることはないし、たとえあったとしても微々たる程度にしかすぎないと考える。」


その数行先には、またこんなでたらめな訳が書いてある:


「[・・・]『気のいい女たち』はあきらかに、何よりもまず現代映画である。その意味を簡単に言うと、ゴダールが映画を利用するのに対し、シャブロルは映画に利用されるのだ。シャブロルはたぶん「言うべきことが何もない」わけではないのだが[・・・]」


「シャブロルは映画に利用される」は「シャブロルは映画に奉仕する」と訳すべき。「シャブロルはたぶん「言うべきことが何もない」わけではない」は、「シャブロルはたぶん「言うべきことなが何もない」」が正しい。この翻訳では真逆の意味になってます。ちなみに、ne 〜 rien は一回生で習う構文。訳者は初歩からやり直すべき。

いま挙げた箇所はすべてこの本の108ページのなかにある。1ページのなかにこれだけ誤訳があるんだから、200ページ近いこの本全体としてはすごいことになっていそうだ。正直いって、最初はあきれていたが、読んでいるうちにだんだん面白くなってきた。

ここで残念なお知らせがある。昨日、細川晋氏自身はフランス語ができると思うと書いたが、よく読んでみると「翻訳:細川晋」と目次に書いてある。つまり、このでたらめな翻訳は細川氏の仕業ということになる。氏はゴダール関係の本などで、いまだに翻訳の仕事をなさっているはず。プロというのは、自分の能力を見極めて、その範囲内で全力を尽くして仕事ができるひとのことをいう。これではプロの仕事とはとうていいえないだろう。映画のことに詳しければ、なんとかなるとでも思ったのだろうか──。甘い。甘すぎる。ろくに準備もせずに政権交代できると思った民主党と同じぐらい甘すぎる。

もっとも、この本は1999年に発行されたものだから、この数年のあいだに氏のフランス語力が飛躍的に進歩している可能性もある(あまり期待できないが)。そうでないなら、今すぐ翻訳の仕事から手を引くべきだ。

フランス語ができる編集者があまりいないから、こんな適当な訳が堂々と出回ってしまうんだろう。フランス語の分野には、別宮貞徳のような欠陥翻訳批評家がいないのが残念だ。だれか実力ある人で、われこそはという人いませんかね。