明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ユセフ・イシャグプール『ル・シネマ』


「映画史を作った30本」の戦後篇をようやくアップした。コメントの大部分はユセフ・イシャグプールの『ル・シネマ』からの引用ですませた。ようするに手抜き。しかし、この本はなかなか簡潔にまとまっていて便利である。引用しやすい文章がすぐに見つかるのだ。必ずしも独創的な本とはいえないが、映画史と映画理論がわずか150ページほどのなかに器用にまとめてあるブリリアントな本だ。本格的に映画を学びたい人が最初に目を通す本としてもいいし、映画にある程度詳しい人がもう一度映画全体について整理し直すときに読んでもいい。

映画は、「現実のイマージュ」(技術による現実の複製)と「イマージュの現実」(イメージのもつ魔術的力)が分かちがたく絡みあうかたちで多用な発展を遂げてきた、というのが著者の基本姿勢だ。このふたつは、もっと単純化するなら「現実」と「フィクション」と呼ぶこともできるし、リュミエールとメリエスの関係であるということもできる。イシャグプールは、アンドレ・バザン流の「存在論的リアリズム」に立脚しつつも、その限界を見据えている。

ハリウッド映画はかつて自らが作り出すイリュージョンによって世界を魅了していた。それはたしかにイリュージョンであったが、そこでは「現実のイマージュ」と「イマージュの現実」が調和しあっていた。そこに描かれる現実は虚構の現実にすぎなかったが、すくなくともそれを支えていたのは「現実のイマージュ」だった。ウェルズによって映画のなかに映画自身に対する反省的思考が導入され、戦後、イタリアン・ネオレアリズモによって、映画イマージュは現実を開示する力を自らのうちに発見する。

しかし、CG映像が氾濫するいま、映画は「現実のイマージュ」という独自性ゆえにそれが有していた魔術的な力を失ってしまった。いまや「現実のイマージュ」が作り出すイリュージョンではなく、シュミラークルと化したイマージュが現実に取って代わっている。だが、バザンの「存在論的リアリズム」を素朴に信じることで、イマージュによって現実を救済することは可能なのか。

「映画が20世紀の偉大な神話のひとつであったのは、、たんに映画が現実のイマージュを見せていたからではない──そんなことはテレビが、多くの虚偽を含みつつ嘔吐を催すまでに、映画よりずっとうまくやっていると豪語していることだ」

「したがって映画にとっての問題は今なお、リュミエールとメリエスの二つの遺産を継続させること、そして我々をますます支配してゆくシュミラークルに対して、現実とフィクションの二領野を、言いかえれば、映画の本質をなす二重の性質──現実のイマージュであり同時にイマージュの現実であるという性質──を、我々にとって開かれたかたちで維持することである。」

これが結論である。いささか平凡であるといえなくもないが、映画が抱えもつこの二重の性質については、何度も立ち返って考えるべき問題であることはたしかだ。

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名前からも推察されるように、著者はテヘラン生まれの映画理論家・批評家で、現在はパリに住んでいる。非常に有名な人で、ドゥルーズの『シネマ』のなかでもたびたびその著作が引用されている。イスラム教徒なのかどうかは定かでないが、少なくともこの本を読む限りでは、あまり宗教的なバックボーンは感じられない。

原文と比べてみたわけではないのでなんともいえないが、翻訳は水準には達している。たまに意味がよくわからない文があるが、それはわたしの頭が悪いせいだろう。ただ、映画のタイトルで、カサヴェテスの "Faces" が『顔』となってたり、"Jules et Jim" が『ジュールとジム』となってたりするのは、わざとそう訳してあるのだろうか(エイゼンシュテインの未公開作『全線』は、この訳者がしているように『全面戦線』と訳すのがより正確なのかどうか、とりあえず判断しかねるが)。 わたしも映画の本を訳すときにタイトルを間違って訳したことがあるが、少し数が多すぎる気がした(他にも『イタリー旅行』『ウィーク・エンド』など)。

ル・シネマ