『ダ・ヴィンチ・コード』★★
『ダ・ヴィンチ・コード』は、カンヌ映画祭で上映されたときのあまりの評判の悪さをフランスのメディアを通して聞いていたので、それほど期待していなかったが、さすがはロン・ハワード作品だけあってそれなりに楽しめる作品になっていた。
しかし、そのおもしろさは、なんというか、鈍いおもしろさとして、どこまでも盛り上がらないまま最後まで持続するだけだ。似合わないインテリ役がミス・キャストだといわれているトム・ハンクスは、それでもまずまずがんばっていたように思う。わたしには、オドレイ・トトゥはそんなにいい女優には思えない。ジャン・レノは最初から最後までどこか居心地悪そうに演技していた。ロン・ハワードも、周りで勝手な騒ぎが起きているなか、あまりのびのびと映画を撮れなかったのではないかという気がする。
ダ・ヴィンチの絵に隠された、カトリックの根幹に関わってくるような謎をめぐって、ルーヴルのピラミッド=ガラスの四角錐に始まり、秘密を解く地図のはいった円柱型の箱、ニュートンの球体=りんご、などといった様々な形をした物体の周りに、おびただしい数字、アナグラム、隠し文字、判じ絵、などなどが並べられてゆき、パズルを解くように物語は進んでゆく。たしかに、その謎解きは、歴史にも美術にも関心のあるわたしにはそれなりに興味深く、退屈せずに見ていられたのだが、その物語というのは、一言でいうなら壮大なはったり、悪ふざけといったものでしかなく、いずれにせよ、それをあれこれ論じることは映画の是非とはあまり関係がないことに思える。
こういうアメリカ以外の場所で展開するアメリカ映画を見るといつも思うのだが、ハリウッドのスタッフが撮った風景は、どれもハリウッド映画にしか見えてこない。パリだろうが、ロンドンだろうが、そこはハリウッドになってしまう。これならばわざわざルーヴルでロケしなくても、ハリウッドにセットを作ればよかったのではないか。そう思わせてしまうところが、だめなのだ。
この映画の宣伝ポスターなどには「モナ・リザ」の巨大な写真が使われているが、映画のなかには、わたしの記憶が正しければ、「モナ・リザ」は映っていなかったような気がする。ルーヴルが主要舞台となっている割には、ダ・ヴィンチもふくめて、絵が画面に登場することはあまりない。できれば、ルーヴルの絵をただただ映し出していてくれればよかったのにとさえ思う。なんとなれば、絵画というのは結局のところ、映画の画面に収められるために存在していたのではないかと思うのだ。吉田喜重の「美の美」シリーズを見ていたときも同じことを考えていた。キャメラが絵の表面をなめるように移動しながら映し出してゆく細部には、ある意味、美術館では決して味わえない官能性がみなぎっていさえする。これは無い物ねだりだが、『ダ・ヴィンチ・コード』はそういう官能性とは無縁の映画だった。
『ダ・ヴィンチ・コード』に飽き足らないという人には、ニコラ・フィリベールがルーヴル美術館を描いたドキュメンタリー『ルーヴル美術館の秘密』、あるいはストローブ=ユイレによる『ルーヴル美術館訪問』を見ることをおすすめする。
『ルーヴル美術館の秘密』