明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


このサイトはPC用に最適化されています。スマホでご覧の場合は、記事の末尾から下にメニューが表示されます。


---
神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

---

評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ショーン・ベイカー『タンジェリン』――iPhone を使って撮られたバーレスク・コメディ


しばらくまともに更新していなかったので、その埋め合わせに、年末からずっとハイペースで更新を続けていたのだが、そろそろペースダウンしようと思う。書くネタならいくらでもあるが、あんまり急いで更新していると、書く内容が散漫になってくる。それに、頻繁に更新したからといって急激にアクセスが増えるわけでもない。特にいいことがあるわけでもないので、これからはもうちょっと間隔を開けて更新をしていこうと思う。


* * *


ショーン・ベイカー『タンジェリン』★★½


一本の映画がまるまる携帯電話によって撮影され、それが世界中で公開される。とにもかくにも凄い時代になったものだと思う。

ショーン・ベイカーの『タンジェリン』は、何よりもまず、全編が iPhone のみによって撮影されたことで世界の注目を浴びることになった映画である。今の携帯電話の動画機能の驚くべき進歩についてあまり詳しくないものなら、それはさぞかしチープな映像に違いないと思うかも知れない。たしかに、キャメラのアングルやポジションはいささか変化が乏しく、単調な印象を与えはする。しかし、映像自体にはほとんどチープさは感じられず、わたしのような素人の目には金をかけた大作映画の画面とそれほど大差のないものにさえ思えた。もっとも、テレビの画面で見ただけなので、映画館の大スクリーンで見たら、また違った感想を持つのかも知れない。(彼がこの映画の撮影にどういうアプリを使ったか、どうやって撮ったのかは、いろんなインタビューで語っているので、独自に調べていただきたい)。

そんなわけで、作品自体よりもその撮られ方のほうにもっぱら注目が集まっているこの映画だが、意外と古風な映画だったというのが見終わっての素直な感想である(オープニングのタイトルバックを見た時などは、一瞬、ダグラス・サーク?と思ったくらいだ)。といっても、古風なというのは別に悪い意味ではない。いかにもタランティーノ以後の作品という雰囲気を漂わせつつも、この映画にはキーストン・コメディ以来のどたばた喜劇の伝統がそれとはなしに感じられる。その影響が見て取れるとか、そういうものを意図して撮られたといいたいわけではない。ただ、何気ないことをきっかけに始まった「追っかけ」が雪だるま式にふくらんでいって、最後は大勢を巻き込んでの大騒動になるというのは、大昔からあるコメディのパターンであり、この映画は、ある意味で、それをきちんと踏襲して、なかなかうまく作品をまとめ上げているということである。

ただ、そんな古典的なコメディとこの映画が違っているのは、「追っかけ」の中心にいるふたりが、ハリウッドのストリートで客引きをして生計を立てているニューハーフであり、しかも彼らは、監督が街でスカウトした本物のニューハーフだということだ(とりあえず、「ニューハーフ」という言葉を使ったが、これでよかったのか。英語だと「トランスジェンダー」という便利な言葉があるのだが、この言葉は日本ではまだそれほど市民権を得ているようには見えない。ちなみに、「トランスジェンダー」ではない人たちのことは、「シスジェンダー」と呼ぶのがポリティカリー・コレクトのようだ)。主役ふたりがニューハーフというのはともかく、それを演じるのが素人のニューハーフというのは、ハリウッドのメジャー映画ならあり得なかったことだろう。

『タンジェリン』の監督が社会的にマージナルな存在に寄せる関心はこれだけではない。ふたりのニューハーフ(シンディとアレクサンドラ)の物語とは別に、ショーン・ベイカーアルメニア人のタクシー運転手を登場させ、この一見無関係な二つの物語を同時並行させて描いていく。彼のタクシーには酔っぱらいからネイティヴ・アメリカンまで、社会の落伍者や周縁的存在が次々と乗り込んでくる。一方、彼自身も、多くの家族を抱え(彼以外はほぼ全員英語が話せない)、妻がいる身でありながら、シンディやアレクサンドラのような男の娼婦相手に自分の欲求を抑えることができない。ふたりのニューハーフの物語がこの映画の物語の縦糸だとするならば、このアルメリア人のタクシー運転手とその家族の物語は、この映画の物語の横糸であり、この二つの物語が最後に一つになる時、混沌はクライマックスに達する。

もっとも、タクシー運転手こそ登場するが、この映画は基本的に「歩く」映画である。理由は簡単で、ふたりのニューハーフは車を持っていないし、金もないからだ(そしてこの映画のスタッフにも金がないからだ)。だから、彼らの移動手段はもっぱら二本の足であり、たまに乗り物を利用することがあっても、それは市バスだったりする(ハリウッドを舞台にした映画で、こういうふうに市バスが登場するのは珍しいのではないだろうか)。そんなわけで、狂ったように街を歩き回るふたりをキャメラは追いかけてゆくのだが、その中で、何度もこの街を描いてきたはずのアメリカ映画が見せたことのなかったような都市の横顔が、ふいに浮かび上がる瞬間がある(『Los Angeles Plays Itself』のトム・アンダーセンもこの映画は気にいるのではないだろうか)。そういえば、ジャームッシュの映画を初めて見た時もこんな感覚を覚えたな。ふとそう思ったりもする。むろん、そういう感覚は、この映画のほんの稀な瞬間に訪れるだけである。最初にもいったように、『タンジェリン』が全体として与える印象はどちらかというと古風なものであって、ジャームッシュを初めて見た時の衝撃とはほど遠い。

しかし、この映画にはインディーズ映画ならではの美点がいろいろあることもたしかである。監督のショーン・ベイカーは、インタビューなどで、本当は金のかかった映画を撮りたかったと繰り返し語っている。『タンジェリン』の成功で彼は間違いなくメジャーへの道を進むことになるだろう。その時、彼が次に撮る映画に、この映画が持っていた少なからざる美点──それらはすべて、幸か不幸か資金不足がもたらしたものだった──がどれほど失われずにいるか。そのあたりをじっくり見定めたいと思う。


日本では未公開だと思っていたが、東京国際映画祭で上映されたことがあるらしい。案外、見ている人が多いのかも知れない。


監督のバックボーンについては全く調べていないのでほとんど知らない。知っているのは、彼が映画を撮りたいと思うようになったきっかけが、ジェームズ・ホエール『フランケンシュタイン』のラストで館が焼け落ちる瞬間を見たときだったということ。それから、彼がブノワ・ジャコの『シングル・ガール』が好きなこと、ロメールからブリュノ・デュモンにいたるフランス映画が大好きだということくらいだ。もっとも、ブノワ・ジャコ云々はフランスのメディアについて語った時の言葉なので、多少のリップ・サーヴィスも混じっているのかも知れない。