「フォードが最終的に目指すものは社会であり、ホークスの場合、それは集団(グループ)である。ウォルシュが目指すのはただただ個人──個人の体験、進歩、発展なのである」(デイヴ・カー)
ラオール・ウォルシュ『賭博の町』(Silver River, 48)
★★★
41年の『壮烈第七騎兵隊』より始まる、ウォルシュとエロール・フリンが組んだ全7作の最後を飾る映画(なぜかこれだけ見逃していた)。
賭博場、銀鉱山、銀行の設立、インディアンの襲撃……。西部劇でおなじみの要素がぎゅっと詰まった、いつものように傑作。
ただし、この映画のエロール・フリンは、他のウォルシュ作品やそれ以外の彼の出演作とはいささか趣が違う。南北戦争中、軍のためにやったはずの行いによって不当にも除隊を余儀なくされた彼は、以後、自分のルールのみを信じて己の内に閉じこもるようになる。賭博場を開き、その儲けで銀鉱山の権利を手に入れ、銀行まで設立して、町を一人で支配するまでに至った彼は、自分が欲する女(アン・シェリダン)の夫(彼は銀鉱山の持ち主でもあったのだが)を、危険と分かっている地域にみすみす行かせ、結果的に彼を死に至らしめ、そのことを黙ったまま、女を妻にする……。
いつになく複雑でダークなこの映画のフリンは、この直後に登場しはじめる新しい西部劇(アンドレ・バザンいうところの「超西部劇」)、とりわけアンソニー・マン作品における登場人物たちの複雑なサイコロジーを先取りしていたかのようである。(まあ、当然というべきか、エロール・フリンのファンの間では、この映画は全然評判が良くなかった。)
暗黒面に堕ちそうになるフリンをいさめる良心の声ともいうべき弁護士役のトマス・ミッチェルが、これまたいつものように素晴らしい。フリンが次第に権力者にのし上がっていって誰も刃向かうことができなくなっていっても、彼だけは変わらずに己を貫く一方で、酒におぼれる弱さも見せる(酔っぱらっていないトマス・ミッチェルがいただろうか?)。ときに傍観者のように、ときにピエロのように振る舞う彼は、シェイクスピアに登場する重要な脇役のようでもある(シェイクスピア的でないトマス・ミッチェルがいただろうか?)。