明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。































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神戸映画資料館でわたしが行っている「連続講座:20世紀傑作映画 再(発)見」の詳細が決まりました。

「連続講座:20世紀傑作映画 再(発)見
第8回 パプストとブルックス──『パンドラの箱』を読み解く」
2019年12月22日(日)
詳細はここで。
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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

フランク・D・ギルロイ『正午から3時まで』――事実ではなく伝説を印刷しろ!

フランク・D・ギルロイ『正午から3時まで』(From Noon Till Three, 1976) ★★



フランク・D・ギルロイが自身の小説を映画化したカルト西部劇。

「撮影リュシアン・バラード」という文字に一瞬心躍るが、タイトル・バックに映し出されるいかにも作り物めいた西部の町を目にしただけで、その気持ちも萎えはじめる。しかし、 映画が進んでゆくに連れて、西部劇とは名ばかりで実は西部劇の枠組みを借りただけの艶笑喜劇とでも呼ぶべきこの映画の内容には、この作り物めいたセットはひょっとして似つかわしかったのではないかと思えてくる。

いかにもセット然としたその作り物めいた町の大通りを、馬に乗った4人の強盗が進んでゆき、銀行を襲う場面から映画は始まるのだが、不思議なことに、通りはおろか銀行の中にも人が誰もいない。彼らはいとも安々と銀行の金庫から大金を奪うことに成功する。だがいざ町を去ろうとした時、彼らは自分たちがいたるところからライフルで狙われていることに気づく。四方八方から降り注ぐ銃弾の雨。強盗たちは為す術もなく全員倒されてしまう……。

しかし、実はこれは、強盗団のひとりグラハム・ドーシー(チャールズ・ブロンソン)が見た夢に過ぎなかった。このいかにも人を食った始まり方からして、この映画がオーソドックスな西部劇ではなく、一癖も二癖もある映画であることを予感させる。

正午。4人はいよいよ本当に町に銀行を襲いにゆく。しかしグラハムの乗った馬が途中で動けなくなってしまい、彼だけが荒野にぽつんとある一軒家で、仲間が強盗を終えて帰ってくるのを待つことになる。ヴィクトリア調の瀟洒な内装を施されたその館には若い未亡人がひとりだけで住んでいる。彼女は最初こそは、亡くなった夫に対して貞淑を誓い、ブロンソンの誘惑に抵抗してみせるが、やがて二人はたちまち恋仲になる。しかし3時になれば強盗団の仲間が帰ってくる(これが「正午から3時まで」というタイトルの意味だ)。

西部劇ならば見せ場になるはずの銀行強盗の場面を一切見せることなく、映画は、このわずか3時間の間にグラハムと未亡人の関係が親密なものとなってゆく様子をひたすらコミカルに描いてゆく。だが、この映画が本当にユニークな展開を見せるのは実はここからだ。

強盗は失敗に終わり、仲間は全員捕まって縛り首にされることになったという知らせが入る。グラハムは内心ホッとするが、妙に男気を見せる未亡人にせっつかれて仲間を助けに行った際に(助けに行くふりをしただけなのだが)、追跡団に見つかって殺されてしまう。しかし実は、殺されたのはグラハムの身代わりにされた男で、グラハム自身は生きていた。ただ、身代わりになって殺された男が詐欺師だったために、グラハムはその罪をかぶって投獄されてしまう。

そんなこととはつゆ知らず、未亡人は愛するグラハムが死んでしまったと思い込む。彼女は、強盗に体を売った女として最初は町の住民たちに蔑まれ、憎まれるが、グラハムとのたった3時間の恋愛を恥じることなく堂々と表明する。やがて二人の物語は小説に書かれてベストセラーになり、町の劇場で芝居に演じられるようにさえなる。未亡人は今や悲劇のヒロインとしてもてはやされ、グラハムも今では英雄扱いだ。未亡人の家は、小説を読んだ人々が訪れてくる観光名所にさえなっている。

小説に描かれた二人の姿は、未亡人の想像力の中でロマンチックに美化されていて、グラハムも実物よりもずっと背が高くハンサムな男に描かれているのだが、町の人達はそれが真実だと信じ込んでしまっている。獄中で小説を読んだグラハムが、「本物のグラハム・ドーシーはこんな男じゃない」と言っても誰も笑って取り合わない*1。それどころか、本物のグラハムを知っている未亡人でさえ、小説に描かれた彼のイメージが真実だと信じるようになっている。牢屋から出たグラハムが目の前に現れても、彼女は、「彼はもっと背が高かった」と言って、本人だと認めようとしないのだ。

ようやく、目の前にいるのが死んだはずのグラハムだとわかると、彼女は喜ぶどころか、彼が生きていることを世間が知れば、フィクションに描かれた美しい物語が台無しになると言って、物語を救うために自ら命を断つのである。ひとり残されたグラハムは、俺こそが本物のグラハム・ドーシーだと吹聴して回るが、彼は死んだと思われているし、小説に描かれたグラハムとかけ離れた姿の彼を誰も相手にしない。彼が狂人扱いされて精神病院に入れられるところで映画は終わっている。

ご覧のとおり、この西部劇が描いているのは、銀行強盗のサスペンスでも、アウトローの生活でも、恋愛物語でもなく、「事実が伝説となった時は、伝説を印刷しろ」というフォードの西部劇『リバティ・バランスを射った男』のテーゼなのだ。もっとも、この映画はフォードの崇高さとは程遠い。むしろ、よく似たプロットを持つアレクサンダー・コルダの『ドン・ファン』(34) などと比較したほうが有益かもしれない。

とても興味深い作品である。ただ、面白いかどうか問われれば、否定的になってしまう。二人の中心人物に品がないのはいいとして、映画自体に品がないのはいかがなものかと思うし、この興味深い物語を語るにあたってフランク・ギルロイ監督がみせる演出も、どこまでも通俗的で、なんのひらめきも感じられない。例えばマンキーウィッツがこの題材を映画にしていたなら、どんな映画になっていただろう。そう考えると、残念でならない。


プロダクション・デザイナーのロバート・クラットワーシーは、ヒッチコックの『サイコ』にも関わった人物で、そう思ってみると、この映画に出てくる一軒家には『サイコ』の屋敷の面影がある。


*1:自分の物語を読む主人公というのは、『ドン・キホーテ』の後編を思い出させる。フラーの『地獄への逆襲』でも、主人公は自分の物語が歌になり、芝居になるのを目にするのだった。