明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

"a fate worse than death" についての覚書――西部劇における先住民の表現についての一考察



神戸映画資料館「連続講座:20世紀傑作映画 再(発)見 第2回『駅馬車』」補足

"a fate worse than death" についての覚書――西部劇における先住民の表現についての一考察



先日の神戸映画資料館での『駅馬車』についての講座を終えたあとで、あのクライマックスの駅馬車とアパッチが激走するシーンで、ハットフィールドが最後に残った一発の銃弾でルーシー・マローリーを殺そうとする場面の意味を正確に理解してなかった人が少なからずいたのでびっくりした。神戸映画資料館に映画を見に来るような観客には、この場面の説明はわざわざ必要ないだろうと思って、講座の中ではあえて言及しなかったのだが、どうやら認識が甘かったようだ。日本とアメリカの文化的環境の違いに加えて、西部劇を日常的に見るという環境が失われているまでは、かつてはあえて説明する必要もなかった場面でも、今は回りくどい説明が必要になってしまっているのかもしれない。『駅馬車』の冒頭では、アパッチの脅威が「ジェロニモ」の一語で完結に示されているのだが、この「ジェロニモ」という言葉も、今の日本の若い観客にはどれほどのインパクトがあるのか、正直、全然わからない。講座のなかでふれた、『駅馬車』に最初つけられていた冒頭の字幕は、今こそ必要なのかもしれない。

駅馬車』でハットフィールドがルーシーに拳銃を向ける場面は、"a fate worse than death"(「死よりも最悪な運命」) を描いた典型的な場面のひとつである。"a fate worse than death" とは、インディアン=先住民に襲われた白人女性は、レイプされて殺されるか(『駅馬車』のフェリー乗り場に打ち捨てられていた白人女性の死体)、インディアンと無理やり性的な関係を結ばされ、奴隷として働かされる(『捜索者』のデビー)ということを暗に示唆する言葉である。むろん、そういう出来事が実際に何度もあったのに違いないが、それでも、この言葉が、すべての先住民は野蛮であるというステレオタイプな発想に基づいていることは確かだろう。さらに、ここには、セクシャリティの問題が深く関わっている。白人女性が先住民と性的な関係を持つことに、白人は異常な恐怖を覚えるが、白人男性が先住民の女と性的関係を持つことに対しては、さほどの抵抗を覚えない。先住民を妻に持ついわゆる「スコウマン」はしばしば軽蔑の対象となる一方で、ふつうの白人にはない知識を持つものとして、一定の尊敬を集める存在でもある(『大いなる勇者』のロバート・レッドフォードや、『ワイルド・アパッチ』のバート・ランカスター)。


"a fate worse than death" という言葉は17世紀にはすでに存在していたらしい。西部劇映画以前に、西部劇小説のなかで、"a fate worse than death" は繰り返し描かれてきた。むろん、具体的に白人女性が陵辱される場面が描かれることはほとんどなかった。具体的に説明しなくても、"a fate worse than death" という一言で、読者には十分通じるようになっていたのである。これは西部劇映画でも同様だったといっていいだろう。

"a fate worse than death" を最初に描いた映画は、おそらくグリフィスの西部劇『エルダーブッシュの戦い』である。この映画のなかで、インディアンに周りを取り囲まれた一軒家のなかで、ただ一人の若い成人女性を演じるリリアン・ギッシュは、赤ん坊を失い、絶望的な状況の中で、画面奥の階段にヘナヘナと座り込む。するとそのとき、階上にたつ男性(顔は見えない)の手にしたピストルが、画面フレームの上方からギッシュの頭部に向けてゆっくりと近づいてくる。『駅馬車』同様、ラスト・ミニュト・レスキユーによって、ギリギリの瞬間、彼女は発砲を免れる。



同様のシチュエーションは、『駅馬車』と同じ年に公開されたセシル・B・デミルの『大平原』にも描かれている。この映画では、インディアンによって列車が転覆させられ、バーバラ・スタンウィックと、彼女を愛する2人の恋敵(ジョエル・マクリーとロバート・プレストン)の3人が、周りをインディアンに囲まれるかたちで車両に閉じ込められ、状況がいよいよ絶望的となったとき、マクリーがスタンウィックの後頭部に拳銃を突きつける。この場合も、最後の瞬間に救助隊が駆けつけ、スタンウィックは救われる。ちなみに、二人には聞こえない騎兵隊のホイッスルの音をスタンウィックだけが最初に聞き取り、"Did you hear it?" というところも、『駅馬車』に酷似している。


『エルダーブッシュの戦い』『駅馬車』『大平原』の3作とも、この場面に言葉による説明を一切加えていない。それは、こういう状況で女にピストルを向けることが何を意味するかを、観客は迷うことなく理解できたからだろう。

もう一つ興味深いのは、いずれの作品でも、女は自分にピストルが向けられていることに気づいていないところである。「死よりも最悪な運命」は、男性によって女性が支配される運命でもあるのだ。ただ、『大平原」の場合だけ異様なのは、グリフィスとフォードの映画では、女にピストルが向けられていることに周りのだれひとり気づいていないのに対して、デミルは、そこに第三者(プレストン)の視線を介在させている点だ。これは決定的な違いであるような気もするのだが、今はうまく説明できない。


駅馬車』のジョン・フォードダドリー・ニコルズが、ダラスにつぶやかせた "there are worse things than Apaches." という言葉は、ひょっとするとこの "a fate worse than death" という表現を意識していたのかもしれない。いずれにせよ、ダラスのこのセリフは、西部劇が描くインディアン=文明のステレオタイプな関係に大きなひねりを加えるものであり、『駅馬車』のなかでは突き詰められることはなかったが、フォード後期の西部劇『馬上の二人』において痛々しいドラマとして描かれることになだろう。


わたしの認識では、"a fate worse than death" という言葉は、とりわけインディアンと白人女性との異種交配の恐怖を表す言葉であるが、白人女性と黒人男性とのあいだの似たような状況に対しても使われることがあるようだ(たとえば、グリフィスの『國民の創生』に描かれたような状況)。さらには、性的な意味は関係なく使われる場合もまれにあるようである。イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』のラストに描かれるヒロインの脊椎損傷の状態を "a fate worse than death" という言葉で表して抗議し、この映画の上映をボイコットしようとする団体がたしかあったと記憶している。


参考文献: "A Fate Worse than Death: Racism, Transgression, and Westerns." (J. P. Telotte)