ウィリアム・ディターレ『ラブレター』(Love Letters, 1944) ★★★
一般にはそこまで評価が高い作品ではない。星の数にはわたしの個人的な思い入れが多分に入っている。なぜだかうまく説明できないのだが、わたしはこの映画がとても好きなのだ。
「ラブレター」というタイトルは非常にロマンチックであるが、映画の内容はそこから想像されるものとはいささかかけ離れている。フランスでの公開タイトル「嘘の重さ」(Le poid d'un mensonge) のほうが、この作品の重々しい雰囲気を正しく伝えていると言えよう。
第二次大戦中、ジョゼフ・コットン演じる主人公アランは、がさつで文才のない友人に頼まれて、 その友人の名前で、ある女性と何度か手紙のやり取りをする。彼はもちろん、その友人も女には会ったことがない。女は手紙の相手に強く惹かれているが、アランが書いた手紙を、彼の友人が書いたものと思いこんでいる。アランには恋人がいるのだが、彼も、手紙のやり取りを通じて、その未知の女性に深いところで心が通じているのを感じていた……。
物語のベースになっているのは、言うまでもなく、エドモン・ロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』である。 しかし、この物語はここから思いもかけない展開を見せる。
友人とはそれっきりになったまま、アランは戦場に赴く。やがて負傷して帰ってきたとき、彼は友人が文通相手の女に会いにゆき、やがて彼女と結婚したこと、そして程なくして亡くなったことを知る。
しばらくして、アランは知人のパーティで一人の女性(ジェニファー・ジョーンズ)に出会い、たちまち親しくなる。女の名前は、例の文通相手の女性とは全然別の名前だった。やがて彼は、友人が実は妻によって殺されたこと、彼女はその事件がショックでその時の記憶も、自分の名前も忘れていることを、そして、パーティで出会った女こそは、その女であることを知る。
すべてを知った上でアランは彼女と結婚する。一見幸せな生活が続くが、欠落した記憶は女の幸せに暗い影を落とす。彼女は、郵便配達が手紙を運んでくるたびにわけもなく怯えるが、その理由がわからない。
アランがずっと思い続けていた女が他にいることも、女の気がかりだった。その女とは、彼が文通していた相手、すなわち彼女自身のことであるのだが、彼女がそのことを知れば、ショックで忌まわしい記憶が蘇り、最悪の場合、発狂してしまうかもしれないのだ……。
チャールズ・ヴィダーの『Blind Alley』について書いたときにふれたように、30年代の終わりにはハリウッドはすでに映画に精神分析を取り入れ始めていた。『ラブレター』が撮られた1945年は、ヒッチコックの『白い恐怖』やジョン・ブラームの『戦慄の調べ』が発表された年でもある。この頃、記憶の欠落を問題にした精神分析を主題とする映画が盛んに撮られるようになっていたのだった。実は、ディターレの『ラブレター』は、こうした流れの中に位置づけられるべき作品なのである。
もっとも、この作品には精神分析医も出てこなければ、あからさまな夢のシーンもない。だから、ピンとこない人もいるかも知れないが、欠けていた記憶を取り戻すことで人物が精神の安定を取り戻すという意味では、『ラブレター』は『白い恐怖』と同じ物語を描いた映画なのである。
たしかに、 この精神分析のメカニズムがこの映画をいささか図式的なものにしてしまっていることは否めない。しかし、同じでありながら異なる二人の人物の自己同一性と愛をめぐるテーマは、『淑女イブ』や『めまい』、あるいは最近では濱口竜介の『寝ても覚めても』といった作品でも描かれたものであり、わたしはこういう物語に出会うといつもめまいのするような感覚を覚えてしまうのだ。
さらには、その物語が手紙というアイテムを通して語られていることも、わたしがこの映画を偏愛する要因の一つであることはたしかだ。「書簡小説」というものが存在するように、「書簡映画」とでも言うべきものが存在する。『月光の女』(The Letter)、『三人の妻への手紙』、『忘れじの面影』……。わたしはこうした手紙を通して語られる映画になぜか惹かれてしまうのだ(とりわけ、『忘れじの面影』のようにそこに女性の声が重ねられる映画に)。そんな「書簡映画」の中で、この作品はベストとは言わないまでも、非常にユニークな位置を占めていることは間違いない。