明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。





























このサイトはPC用に最適化されています。スマホでご覧の場合は、記事の末尾から下にメニューが表示されます。


---
評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

『クローバーフィールド』

クローバーフィールド

この映画は、最初から最後まで、一般人がビデオで撮影した映像という体裁でつくられている。いわば、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の手法を使って作りあげられた大仕掛けのSFアクションである。ドゥルーズふうにいうなら、「小さな形式」を使って、侵略ものSFをやっているとでもいえばいいか。決していままでになかったタイプの映画ではないが、これだけ金をかけたメジャー映画として興行的に成功させたという点で、現象として新しいということはできる。

友人のお別れパーティを撮影中に、正体不明の物体がニューヨークを直撃し、自由の女神が破壊されるという冒頭は、すぐさま 9/11 のテロを想起させるだろう。この映画自体が、日本でも繰りかえし放送されたツイン・タワービル崩壊を地上から捉えたアマチュア映像から発想をえたものかもしれない。映画は、事態を把握できないで右往左往する人々を、不明瞭な手持ちキャメラによる徹底した主観映像で捉えつづける。観客自身がその現場に居合わせてしまったかのような疑似体験を生み出すのが、この撮影スタイルのねらいだったはずである。この試みはある程度成功しているといっていいだろう。

もっとも、この映画になんらかのメッセージを探しても無駄である。監督のコメントは読んだことがないのでわからないが、たぶん、ヴィデオ・ゲームをしているときのようなヴァーチャルな感覚を映画で作り出せたら面白いぐらいの単純な発想だったのだろう。観客を映像のなかにひきこむために、あのテロ以後いまも人々が漠然と抱いている不安を利用したとまではいわないが、観客があのときのことを思い出して、目前の光景と重ねあわせて見ることは計算済みだったはずだ。

飽きずに最後まで楽しめる映画ではあった。ただ、もっと面白い映画になったはずなのにという思いは残る。あまりあざとい作り方をしてしまったら、作品のコンセプトから外れてしまうというのはわかるが、もっとほかにやりようはあったのではないか。ロジャー・コーマン門下生のわたしとしては、モンスターが早い段階であっさり登場したのにがっかりした(おおくの観客には、あれでも遅すぎるのだろうが)。モンスターや宇宙人というのは、最初は影だけ、次にしっぽや足を、それから目だけを見せて、最後にしょぼい全体を見せるというのが正しいB級映画のあり方というものだ。しかしこういうのはいまの時代にははやらないらしい。

それはわかるのだが、モンスターの造形はともかく、いかにもCGでつくりましたといったつるつるの皮膚を見ると、ちょっとしらけてしまうし、正直いってあまり怖くない。なにもでかけりゃいいってものではないのだ。『大アマゾンの半魚人』で、小さな丸い船窓からちらっと見える半魚人のウロコのほうがどれだけ怖かったことか。そういうディテールがこの映画には欠けている。ディテールを欠いた映画をわたしは信じることができない(もちろん、映画を愉しむために、むりやり信じ込もうと努力はするが)。

表現が「リアル」だという印象を受けた人も多いようだが、その「リアル」さは、作られた効果に過ぎない。手持ちキャメラをぐらぐらと揺らしながら撮ったほうがフィックスの画面よりも臨場感があるというのも(実際には手持ちではなく、映像処理によってぶれている感じを出していたらしいが)、解像度の悪い映像のほうがクリアな画面よりもリアルに見えるというのも、たんなる思いこみである。35のフィルムを使って、もっと安定した画面で人物の背中越しに撮っていたほうが、この映画はたぶんもっと迫力のある「リアル」なものになっていた可能性が高い。しかし、われわれは低レベルの映像のほうがより現実味があり、ドキュメンタリーぽいと、わけもなく感じてしまうようだ(35の「フィクション」と16の「ドキュメンタリー」を対比させて描いた『不愉快な話』ユスターシュは、そういう制度の虚構性自体を問題にしていたのだ)。


一人称キャメラには必ずしも観客を巻き込む力がないということは、ロバート・モンゴメリー『湖中の女』ですでに証明済みである。実際には、一人称キャメラを使うよりも俳優の背中越しに撮ったほうがよりいっそう人物と同化できると、トリュフォーもどこかで語っていた。しかし、この監督は、たぶん、そういう映画史の流れとは無関係に、この映画をつくったに違いない。映画よりもむしろ、登場人物になりきって3D画面のなかを歩き回るヴィデオ・ゲームのほうが、この作品のテイストに近いということもできるだろう。『遊星よりの物体X』を思わせるクモ型の小型モンスターが登場するタイミングにも、ヴィデオ・ゲーム的なものを感じる(シューティング・ゲームならここは一回死ぬところだな、などと思いながらわたしは見ていた)。

素人が撮ったヴィデオ映像で一本の映画を作りあげるというアイデアは悪くない。しかし、素人が撮った映像を映画としてみせる手つきがいかにも素人っぽいのには、少しがっかりさせられる。モンスター・パニック映画としては、さっきいったように、モンスターの造形も、その見せ方もあまりうまくないし、致命的なのは、映像を扱うものとして空間を把握するセンスが欠けていることだ。人物が斜面を登っているのか、降りているのかもよくわからない。どこをどう進んでいるのかもわからない。しかも、それが迷路のような感覚を生み出すわけでもない。たんに空間描写が下手なだけなのだ。できれば、このコンセプトはそのままに、スピルバーグにでも監督してもらいたかった。ジョージ・A・ロメロなら、悪夢の一夜を強烈な体験として描いてくれただろう(と書いたあとで Web を調べていたら、まもなく公開されるロメロの新作『ダイアリー・オブ・デッド』は、主観キャメラで撮られたホラーになっているらしい。スペイン製ホラー『REC』など、この手の映画はしばらく流行しそうな気配である)。


ともあれ、携帯電話によってあらゆる瞬間が撮影可能となり、またそれが YouTube などのサイトを通じて世界的に同時配信されうる時代に撮られたSFとして、興味深い一本ではあった。この映画の予告編が本編よりも先に完成していたというのは象徴的だ。映画が公開する前にすべてははじまっていたのである。映画本編はピリオドに過ぎなかったのだ。ネットという巨大なネットワークを通じて、映画の外部にまでフィクションを蔓延させる。「Lost」のプロデューサーにふさわしい戦略だったといっていいだろう。