明るい部屋:映画についての覚書

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

アピチャッポン・ウィーラセタクン『メコンホテル』


アピチャッポン・ウィーラセタクン『メコンホテル』★★


アピチャッポン・ウィーラセタクンは映画作品を発表する一方で、映像を用いたインスタレーション作品を中心にした美術の個展をたびたび開いてきた。それらのインスタレーション作品は、彼が撮ろうとしていた映画から派生したものであったり、逆に、これらの作品から映画の企画が生まれることもあったようだ。彼の映画作品と映像インスタレーション作品は、このようにして同時発生的に作り出されてきたように見える。アピチャッポンが2012年に製作した1時間足らずの*1作品『メコンホテル』は、おそらく、そうしたインスタレーション作品と映画作品のいわば中間にあるような存在として見るべきなのだろう。


メコンホテル』のベースになっているのは、アピチャッポンがかつて脚本を書き、結局映画化されることのなかった『エクスタシー・ガーデン』という人喰い幽霊をめぐる映画の企画である。メコン河を一望するホテルが『メコンホテル』の唯一の舞台であり、そこでこの『エクスタシー・ガーデン』の撮影リハーサルが行われている、ということらしい。映画はそのリハーサルの風景と、合間の俳優たちの素の姿を交互に映し出していく。もっとも、「エクスタシー・ガーデン」という言葉はこの映画の中では一度もつぶやかれないはずであるし、キャメラや台本を持った撮影クルーが画面に登場するわけでもない。これが『エクスタシー・ガーデン』という映画の撮影リハーサルだというのは、あくまで映画外から得た情報にすぎないのである。冒頭、アピチャッポン自身が現れて、ギターを演奏する男と会話をする場面に、説明のようなものがわずかに感じられるだけだ。

たしかに、母親の幽霊が娘の肉体をむさぼり喰らうシーンがあったかと思うと、その直後に2人がホテルのテラスであっけらかんと喋っていたりするわけだから、ここでは撮影リハーサルと俳優たちのドキュメントが同時進行しているのだろう。しかし、そのリハーサルとやらがキャメラによって撮影されている時点で、それはもうリハーサルとは呼べないわけだし、フィクションを撮っているはずのその同じキャメラが捉える俳優たちの現実も、すでにドキュメンタリーと呼ばれるものからどこかずれはじめている。

ところで、このギターの演奏は、この映画の上映の間中ほとんど途切れることなく流れつづける。まるで、この映画自体が、この演奏を聴かせるために即興で撮り上げられたものにすぎないとさえ思えてくるくらいだ。アピチャッポンはミュージック・ビデオと言ってもいいような短編をすでに撮っているが、この映画をミュージック・ビデオと呼ぶことは決して間違いではないだろう。ギターを演奏している男はアピチャッポンが長い間会っていなかった旧友で、偶然再会した彼がミュージシャンになっていたことを知り、この映画に登場させることになったという。このミュージシャンとの偶然の出会い、撮られることのなかった映画の脚本、そしてメコンホテルという場所。これらによるコラージュ(あるいはブリコラージュ)によって生まれたのがこの映画なのである。


絶えず視界に広がるメコン河――、タイとラオスの国境の間を優雅に流れるこの河の存在が、この映画のテーマのありかを指し示している。ぼんやりと曖昧に揺らぎはじめる〈境界〉。俳優たちが〈ドキュメント部分〉で話題にするのは、タイを襲った大洪水であったり、移民の話であったりと、どれも境界線をなし崩し的に曖昧にしてしまう事柄ばかりだ。

人物がテラスに立つと背景いっぱいにメコン河の水面が広がる。まるで、このホテル自体が水面に浮かんで境界線上をゆらゆらと漂っている箱舟のように思えてくる。アピチャッポンの映画に慣れ親しんできた観客なら、この曖昧に揺れている時空に身を任せて、ゆっくりと心地よく漂っていられるだろう。しかし、そうではない観客にとって、はたしてこの映画はどこまで鑑賞に堪えうる作品になっているのだろうか。それは少しばかり疑問ではある。映画祭で見られるためだけに撮られた映画祭用の映画、というネガティヴな批評が散見されたのもわからないではない。この映画は、映画作品とインスタレーション作品の中間のようなものとしてみるべきだと言ったのは、そういう意味である。

河を旋回する水上ボートと、ゆっくりと流されてゆく流木をフィックスで捉えた数分間はつづくラストショット(キアロスタミが『Five』で岸辺を漂う木片をクロースアップで捉えつづけたのと同じことを、ロングショットでやってしまったような)も、そのようなものとしてみるべきなのだろうか。インスタレーション作品を前にした鑑賞者が、思い思いの時間にその場を立ち去るように、この長い長いショットに途中で飽きればいつでも立ち去ればよいということなのか。

ところで、『メコンホテル』には、川岸の砂をシャベルカーが掘り出している様子を俯瞰で捉えたショットが出てくる。あれはいったい何をしていたのだろうか。『光りの墓』にも、シャベルカーで土を掘っている場面が出てくるのだが、あれも結局なにをしているのかわからなかった(こういうところだけはアピチャッポンに黒沢清に近いものを感じる)。一見無関係な2作品の見せるこの符合は単なる偶然なのだろうか。それとも、無意識のイメージの反復なのだろうか。掘り返される土=過去・記憶の回帰? 例によって、この映画も見終わった後にいくつもの謎を残すが、このシャベルカーのイメージは最大の謎の一つである。

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メコンホテル』は未公開だが、数年前に東京フィルメックスで上映されたらしい。『光りの墓』のブルーレイ(下写真)は、わたしが持っているものと同じものなので、特典に『メコンホテル』が収録されているはずだが、Amazon.jp の該当ページにはなんの記載もない。Amazon.com で同じ番号の商品を調べると、ちゃんと『メコンホテル』が収録されているとの記載があるので、間違いはないと思うが、念のために自分で調べてほしい。(『光りの墓』については、また別の機会にでも取り上げたいと思う。)


*1:この映画には、61分版と 57分版の二つのヴァージョンが存在する。