明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

W・C・フィールズについての覚書1——『進めオリンピック』


「2,3年前私は、個人的な楽しみとしてもう一度見たい映画は何か、と大学生たちに聞かれたことがある。私はためらうことなく『我輩はカモである』と『進めオリンピック』だと答えたが、その2本の映画がまさか関連があるとは知らなかった。しかし、それら2本は確かにある喜劇的精神で結ばれている*1」(ポーリン・ケイル『スキャンダルの祝祭』)



W・C・フィールズは、「マーク・トゥエイン以後、アメリカ最大のユーモリスト」などと評され、チャップリンキートンにつづくアメリカ映画最大の喜劇役者の一人という不動の地位を今では築いている。チャップリンやローレル&ハーディ、あるいはマルクス兄弟などと比べてフィールズがアメリカで実際にはどれほど人気があるのか、正直、感覚としてはわからない。ただ、日本での知名度からは想像のつかないほどの人気と存在感があることだけは間違いないだろう*2。実際、かつては少なからぬ作品が公開されたものの、日本ではフィールズは今やほとんど忘れ去られてしまっており、ビデオや DVD でさえ見ることができない。たしかに、チャップリンキートンでさえ、以前と比べると上映される機会は稀になっている。しかし、それでも年に何度かは彼らの作品をフィルムで見るチャンスは今でもあるのに対して、W・C・フィールズの映画がどこかで上映されたという記憶は、過去をずっとさかのぼってみても全く思い当たらない。ひょっとしたら『曲馬団のサリー』や『百萬圓貰ったら』がどこかで上映されることがあったかもしれないが、もしあったとしても、それはグリフィスの特集やルビッチの特集の上映作品のなかにたまたまフィールズの出演作が紛れ込んでいたというだけにすぎないだろう。わたしの知るかぎり、フィールが日本で脚光をあびたことは一度もなかった。

フィールズの人気が日本では定着しなかったのはなぜなのか。最近、彼の出演作を何本かまとめて見て、改めてその天才ぶりを確信しただけに、日本でのこの不人気は謎に思える。フィールズの出演作は、初期のサイレント時代には「ちょび髯」という邦題を付けられていたが、やがて「南瓜」(かぼちゃ)というフレーズを入れたタイトルがあてられるようになる。「ちょび髯」はチャップリンとかぶるし、おそらく体型から来ているのだろう「南瓜」というのもいまいちピンとこない。実際、わたしはどこにも南瓜など出てこないはずの『It's a Gift』がなぜ「かぼちゃ大当たり」という邦題を付けられているのか、つい最近になってやっと理解したぐらいなのだ。キートンの無表情、ロイドの眼鏡、二人組のローレル&ハーディ、三人組(ほんとは四人だが)のマルクス兄弟といった、わかりやすくインパクトのある特徴を通してイメージを定着化できなかったからなのだろうか。帽子とステッキがいつものコスチュームであるのは同じであっても、フィールズがそれらを使うとチャップリンとはまるで別の喜劇的な効果を発揮する。しかし、やはり帽子とステッキと言えばチャップリンになってしまうのだ。むろんそれだけが理由ではないだろうし、そのあたりはまた改めて調べてみる必要がある。

結局、結論としては、今やだれもフィールズの映画を見ていないし、その機会もないということなのだ。だれも見ていないのに人気など出るはずもないではないか。というわけで、ささやかながらもここでフィールズの作品を定期的に紹介していこうと思う。本当は何本かまとめて紹介する予定だったのだが、無駄にうんちくを傾けていたら長くなってしまったので1本しか取り上げられなかった。

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オリンピック映画というとレニ・リーフェンシュタールの『民族の祭典』や市川崑の『東京オリンピック』が真っ先に思い浮かべられるのだろうが、オリンピック映画と呼ぶべき作品はクリス・マルケルの『オランピア52』や、エレム・クリモフの『スポーツ、スポーツ、スポーツ』など、他にもいくらでもある。『Million Dollar Legs』はそんなオリンピック映画の一つだ。短編作品ではすでに存在感を見せ始めていたフィールズが、トーキー以後としてはたぶんこれが二本目となる長編映画でかなり主役に近い役を演じ、喜劇役者としての本領を初めて存分に発揮したという意味でも重要な作品である。リオ五輪も間近に迫っているということで、まずこの作品から紹介する。


エドワード・F・クライン『進めオリンピック』(Million Dollar Legs, 31)
★★


1931年の秋、パラマウントの製作部主任B・P・シュールバーグは、会社お抱えのシナリオライターたちに次のようなお達しを出す。翌年の夏にロサンゼルスで開催が予定されているオリンピックにあわせて、これをネタにした映画を急遽一本作るというのだ。二十歳そこそこの新人脚本家がこのチャンスに飛びつく。彼は、ありきたりのスポーツ映画ではなく、型破りの映画を作るべきだと主張し、28年にアムステルダムで開かれたオリンピックで直に見て衝撃を覚えたアルバニア人棒高跳び選手の超人的なパフォーマンスをヒントに脚本を書き上げる。脚本家の名前はジョセフ・L・マンキーウィッツといい、彼は映画の世界に入ったばかりで、まだなんの功績も残していない新人だった。

マンキーウィッツが劇作家ヘンリー・マイヤースの協力をえて考えついた型破りなストーリーとは次のようなものだ。映画の舞台となるのは、クロプストキアという架空の王国。そこでは男たちは皆ジョージという名前で、女たちは皆アンジェラと呼ばれている。そして何よりも驚くべきなのは、この国の住人すべてが驚異的な身体能力を持っていることだ。しかしこの国は危機に瀕していた。財政は底をつき、スパイがはびこり、重臣たちは王位を狙って画策しあっている。そこに脳天気なアメリカのビジネスマンが現れ、王の娘(むろん彼女もアンジェラ)に恋をしたことで、事態は一変する。彼はこの国の住民の驚異的な身体能力に目を付け、彼らの中から選手団を編成してオリンピックに出場させ、国を窮地から救おうというのだ。王の失墜を狙う重臣たちは、マタ・マクリーという女スパイ("Mata Machree, the Woman No Man Can Resist")を使って選手を誘惑させ、このオリンピック計画を頓挫させようとする。彼女の色香に惑わされて、選手たちは、一時は、惨憺たる成績しか残せず観客たちの笑いものになってしまうが、ビジネスマンと王の娘の活躍によって、最後の最後には本来の実力を発揮し、メダルを獲得するのだった。

驚くべきことに、シュールバーグはこの荒唐無稽な脚本にOKを出すのだが、ただし一点だけ内容を修正させる。王国という設定はひょっとしたら英国を刺激するかもしれないので、クロプストキアは共和国であるということにして、王は大統領に変えるほうがいいということだった。完成した映画では実際にそのように変更されたのだが、それ以外はほとんど上に書いたとおりのクレイジーな物語が展開する。

監督のエドワード・F・クラインはサイレント時代にキートンの映画を多数手がけていたベテランで、製作監修にはジョセフの兄であるハーマン・マンキーウィッツがあたった。この当時はまだそれほどのスターではなかったはずのW・C・フィールズが、自分もオリンピックに出場する大統領の役を演じ、サイレント時代に大活躍した喜劇役者ベン・ターピンが、あらゆる場所に現れてはメモに何事かを書き込み、結局最後まで一言も発しない不気味で滑稽なスパイの役で登場している。女スパイ、マタ・マクリーを演じるのはリダ・ロベルティ。この名前はむろんガルボマタ・ハリのパロディで、わたしにはわからないが、彼女の喋る言葉はスウェーデン訛りになっているらしい。

オリンピックへの言及はもちろん、このようにハリウッドへの自己言及も含む作品だが、この映画には当時のアメリカの政治・社会が微妙に反映されてもいる。クロプストキアが財政難に苦しんでいるというのは、H・C・フーバー大統領時代のアメリカが様々な策を講じながらも結局大恐慌の痛手から回復できずにいたことを反映しているのだろう。また、32年はオリンピックの開催年であると同時に、大統領選挙の年でもあった。この映画に描かれる滑稽でシュールな権力争い(大統領フィールズとその最大のライバルである重臣は、ことあるごとに腕相撲や何やらで争っていて、当然その争いはオリンピックの場へと持ち越される)は、アメリカの大統領選を暗に指し示しているとも考えられる。

映画の結末では、クロプストキアのオリンピック・チームは勝利を収めるのだが、そこに例のビジネスマンの上司が唐突に現れ、スポーツ好きの彼によって資金援助を受けることになり、クロプストキアは救われる。結局、クロプストキアはこのアメリカ人の大富豪である上司によって救われるわけであり、とっくみあいではだれにも負けなかった大統領フィールズは、この男にレスリングでもあっさりと負けてしまう。要するに、アメリカが最後は勝利するというわけだ。

この映画のフィールズは、主役と言うよりは、非常に出番の多い脇役といったほうが近いだろうか。彼自身の身体的ギャグはどちらかというと少なめで、その意味では少し物足りないかもしれないが、シュールなギャグは映画の至る所にちりばめられていて、枚挙にいとまがない。この映画の無軌道ぶりは、キーストン・コメディを始めとするサイレントのスラップスティック・コメディの伝統を受け継ぐと同時に、プレストン・スタージェスなどの作品を予告していると言ってもいいだろう。大統領の部屋の壁にいくつものボタンが並んでいて、「ハンバーグ」と書かれているボタンの横に、「マスタード付き」というボタンがあり、そのまた横に「マスタード抜き」というボタンが並んでいたりする。そしていちばん右端のボタンを大統領が押すと、兵隊が現れてビジネスマンを中庭に連れ出し、彼は危うく銃殺されそうになる(そのボタンは銃殺刑のボタンだったのだ)などといった、ちょっとブラックなギャグがおかしい。『Million Dollar Legs』は、アメリカでは批評家受けはよかったものの、興行的にはふるわなかったらしいが、海外では、マン・レイシュールレアリストたちから大絶賛されたというのも頷ける。

架空の国を舞台にしたナンセンス・コメディというと、同じパラマウント製作のマルクス兄弟『我輩はカモである』が思い出されるが、先に作られたのはフィールズ作品のほうである。『Million Dolla Legs』が公開されて数週間後に、『我輩はカモである』の製作が発表されたのだった。おそらく、『Million Dolla Legs』が『我輩はカモである』が製作される一つのきっかけになっていたと思われるが、詳しくは調べていない(ちなみに、『我輩はカモである』は当初、エルンスト・ルビッチが監督することになっていた。ルビッチが監督したマルクス兄弟をぜひとも見てみたかったものだ)。


*1:この2本ともに、ハーマン・マンキーウィッツが脚本に関わっている。

*2:テックス・エイヴリーのアニメのなかに、球場の名前が「W・C・フィールド」となっているギャグがあったことを思い出す。