明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

アンジェイ・ムンク『やぶにらみの幸福』


たまたまアンジェイ・ムンクの映画を何本か DVD で見、ついでに、ちょっと前に衛星放送で録画したまま放っておいたワイダの『世代』をようやく鑑賞し、1年以上前に買っておいたスコリモフスキーの『Moontlighting』の DVD をやっと開封し、ポーランド映画のことを少し調べていたところだったので、ロマン・ポランスキーがスイスで逮捕されたというニュースを聞いたときは、とても驚いた。むかし起こした例の少女暴行事件が逮捕理由だそうだから、三浦なにがしの事件を思い出させる展開である。Le Monde のウェッブ版にはこの事件についての記事がすでに山のように書かれていて、ポランスキーはひょっとしたら、わたしが知らないうちにフランスに帰化していたのかと思ったぐらいだ(そうなのか?)。文化相のフレデリックミッテランが逮捕に疑義を唱えると、それを緑の党のダニエル・コーン=ベンディットがたしなめるといった具合に、この事件はフランス政界にも波紋を及ぼしている(そういえば、CRITERION から出ている『ポケットの中の握り拳』の DVD だったろうか、特典映像のなかの字幕で、コーン=ベンディットの綴りが間違っていたのを思い出した)。

アメリカでも、ウディ・アレンやスコセッシらが釈放を求めてすでに署名活動に動いているとも聞く。日本ではあいかわらず、日本人とハリウッド俳優が関わっていないニュースには関心が薄いようだ。ウェッブ以外では、大して話題になっていないように思える。


☆ ☆ ☆


アンジェイ・ムンク『やぶにらみの幸福』(Zezowate szczescie, 60)


ワイダやカワレロヴィッチ、あるいはポランスキーといった戦後ポーランド派の作家たちや、キェシロフスキなどの作品が数多く公開される一方で、いまだに日本では冷遇されつづけているポーランド映画作家たちがいる。ポーランド映画ヌーヴェル・ヴァーグの筆頭クシシュトフ・ザヌーシ、イエジー・スコリモフスキー、そしてワイダやカワレロヴィッチとほぼ同世代のアンジェイ・ムンクもその一人だ。

日本では、ムンクの映画は、フィルムではもちろん、ビデオでもほとんど見ることができない。わずかに『パサジェルカ』がビデオになっているぐらいだ。これも、今となっては探し回らなければ見つからないだろう。DVD が出る気配もまったくない。幸い、海外では、ムンク長編映画は、今ではほとんど DVD で見ることができる(もっとも、ムンクはその生涯でわずか数本の長編しか撮っておらず、しかもそのうちの一本は未完のままだ。全部まとめても、BOX 1個に余裕で収まってしまう)。


『やぶにらみの幸福』はムンクが遺作『パサジェルカ』の前に撮った最後から2番目の長編映画だ(「やぶにらみの幸福」というのが、この映画の原題の直訳なのかどうか、わたしには分からない。邦訳の出ているマレク・ハルトフの『ポーランド映画史』のなかでそう訳されていたので、とりあえずそのまま使ったが、いささか意味不明の表現だ)。この映画を見ると、ムンクが『パサジェルカ』一本で片付けられるような作家ではないことがよくわかる。彼の数少ない作品のなかでも、おそらく最も重要な一本といってもいいだろう。だが、この作品の話をする前に、『エロイカ』という映画について少しふれておきたい。


『エロイカ』は、『やぶにらみの幸福』の1つ前の長編映画で、ムンクが撮った最も有名な作品といってもいいだろう。この映画は、第二次世界大戦を描いた2つのエピソードより構成されていて、2つの挿話はともにポーランド人のロマン的英雄主義とでもいったものを主題にしている(『エロイカ』はもともと3部構成になる予定だったが、映画版では3話目がカットされた。テレビでは第3話も放映されたという)。その第1話で描かれるのは、ワルシャワ蜂起に参加したポーランド人男性のエピソードだ。主人公は、危険が迫ると見るや、ためらいもなく演習から逃げ出すような男で、英雄からはほど遠い人物である。その男が、妻の愛人のハンガリー人を通して、反ナチのハンガリー勢力と国民軍(?)のあいだの伝令役を図らずも務め、やがて本当に英雄になるという皮肉な物語が描かれるのだが、ムンクはこの臆病者で日和見主義者の主人公を決して批判的に描いているわけではない。むしろ、この失敗に終わった蜂起をポーランド人が描く際のお決まりである悲劇的英雄主義のほうにこそ、批判の矛先は向けられている。この映画の脚本を書いたのは、イエジー・ステファン・スタヴィンスキー。同じくワルシャワ蜂起を描いたワイダの『地下水道』の脚本家だ。同じ歴史的出来事を、同じ脚本家が描いた映画でありながら、『エロイカ』のアプローチは『地下水道』のそれとは正反対といっていい。

周りで銃撃戦が起きていることにも気づかず、主人公が酔っぱらったように戦場をさまよう1話とは対照的に、第2話は閉鎖的な捕虜収容所内で展開する。ここでもテーマとなっているのは英雄主義だ。その収容所では、たったひとりだけ脱走に成功した人間がいて、それがいわば伝説になっている。だが、実は、彼は脱走などしておらず、収容所の屋根裏に隠れ住んでいたのだ。そのことを知っている数人の捕虜たちは、その事実をひた隠しにする。英雄の伝説が捕虜たちの希望になっているからだ。しかし、その一方で、その英雄主義が彼らの行動力を麻痺させていることをも、映画は描き出してゆく。

悲劇的英雄主義をロマンティックに描くワイダ作品とは、実に対照的である。ポーランド派の多様性を理解するためにも、『エロイカ』は『地下水道』と並べて見るべき作品だ。


エロイカ』の次に撮られた長編『やぶにらみの幸福』は、いわば『エロイカ』の第1話の延長上にあるといえる。

「Bad Luck」という英語タイトルを持つこの作品の主人公は、自分が生きたポーランドの戦前から戦後にかけての激動の時代を回想しつつ、自分は「歴史の永遠の玩具」だったと嘆く。彼はなぜかいつも、間の悪いときに間の悪い場所に居合わしてしまうのだ。顔立ちのせいでファシストからはユダヤ人と間違われる一方で、警官にはファシスト扱いされ(2つのデモ隊にはさまれた彼は、どうしていいかわからず、ファシストのスローガンと反ファシストのスローガンをかわるがわる叫ぶ)、戦争が始まると、わけも分からないうちに次々と、ナチの協力者、闇商人、レジスタンスの伝令役などを演じていくはめになる。戦争が終わると、主人公はまずは偽弁護士となって金を稼ぎ、やがて、スターリン社会主義を熱狂的に支持する役人として出世してゆく。

ゴンヴロヴィッチが書き直したヴォルテールの『カンディード』、あるいはポーランド版『フォレスト・ガンプ』とでもいうべきこの映画のなかで、主人公は歴史の様々な局面を通り抜けてゆくのだが、『エロイカ』の主人公同様、彼も自分の周りで起こっていることがまるで理解できないでいる。彼は身に降りかかる不幸を、自分につきまとう悪運のせいだと嘆く。だが、彼の不運の半分は、彼の日和見主義のせいだといっていい。周りで起きていることにわけもわからず順応し、皆がしていることを理解もせずに真似する。しかし、その間にも状況が変わっていることに気づかず、手痛いしっぺ返しを食う。その繰り返しが、彼の人生なのだ。

だが、『エロイカ』同様、ここでもムンクは、主人公を必ずしも批判的に描いているわけではない。たしかに、愚かな日和見主義者ではある。しかし、彼の愚かしさと、日和見主義は、無垢の裏返しでもあるのだ。風見鶏が変わるわけではない。風が変わるだけなのだ。先を見て動くのが要領のいい人間だとするなら、彼は決して要領のいい人間ではない。ただ愚かなだけで、彼はその場その場を、ある意味、真剣に生きてはいる。良くも悪くも、結局、彼はそうして生き延びるのだ。

この映画は、主人公のフラッシュ・バックというかたちで物語られてゆく。最初、彼が今いる場所ははっきりとわからない。勤め先をクビにされかけて、上司を泣き落としにかかっているところのようにも見える。しかし、最後の最後になって、彼が今いるのは監獄であり、今まさに釈放されようとしているところだということが判明する。なにをやっても不運につきまとわれるが、監獄のなかでなにもしないでいるあいだだけは、不運から逃れられると考えた彼は、もう一度牢屋に戻してくれと頼むが、それはできないと断られるところで映画は終わっている。『エロイカ』第2話の監獄のテーマはここでも別のかたちで変奏され、それは未完の遺作となった『パサジェルカ』へとつながってゆくことになるだろう。