レオ・マッケリー『マイ・サン・ジョン/赤い疑惑』(My Son John, 52) ★★
これはいろんな意味ですごい映画だ。レオ・マッケリーにさえこのような映画を撮らせてしまったとは、1950年代のハリウッドというのはなんと暗澹たる時代だったのだろう。
1940年代の半ばあたりから(正確に言うならば、1930年代に始まり、第二次大戦中の一時期をのぞいて)50年代の米ソ冷戦の時代に至るまで、ハリウッドで数多く作られたいわゆる「反共映画」(反共産主義プロパガンダ映画)については、すでに5年ほど前にここで簡単に紹介してある。ただ、そこで取り上げた作品は、基本的に40年代に撮られた作品ばかりだった。50年代の米ソ冷戦時代に作られた作品についてはほとんどふれなかったのだが、共産主義の脅威を扇情的に訴えかけるプロパガンダ映画の数は、この時代になって減るどころかますます増えていく。
1952年に撮られたこのマッケリーの『マイ・サン・ジョン』は、そんな冷戦時代のハリウッドで撮られた反共映画のなかで、いや、端的にいって、あらゆる反共映画のなかで、もっとも悪名高い一本なのである。(ちなみに、1952年は大統領選の年で、50年代前半に制作された反共プロパガンダ映画の3分の1近くがこの年に集中している。その中には、リベラル派として知られるあのドア・シャリーが製作した反共ドキュメンタリーの短編『The Hoaxters』も含まれる*1。)
40年代にハリウッドで撮られた反共プロパガンダ映画というのがどのようなものであったかについては、先ほどのページを読んでいただければだいたい分かると思うので、ここでは繰り返さない。50年代に作られた反共映画も、基本的には同じようなものだったのだろう。もっとも、わたしはこの時代に撮られた反共映画は数えるほどしか見ていない。あえてみる気がしないというのが正直な気持ちである。見る前から、見終わった後の疲労感がだいたい想像が付いてしまうと言ったほうがいいか。しかし、善悪2項対立の構図をつくり、極端な形でその一方を賛美・高揚するというのがプロパガンダの基本的あり方であるからには、時代が変わったからといって反共プロパガンダ映画のかたちがそう極端に変わるとは思えない。
ただし、プロパガンダ映画といえども時代の影響は多少なりともうける。40年代に撮られた反共プロパガンダ映画の多くが、ギャング映画やフィルム・ノワールに近いスタイルで撮られていたのは、これらのジャンルの作品がその頃に数多く作られていたからに他ならない。これに対して、50年代の反共プロパガンダ映画が特権的に活用したジャンルの一つが、SF映画であった。いわゆる〈侵略もの〉SF映画──宇宙からやって来た異星人たちが、人間そっくりの姿をして社会に潜り込み、知らず知らずのうちに地球を支配してゆく。隣人や親族がいつの間にかエイリアンに乗っ取られているという恐怖が、〈侵略もの〉SF映画の醍醐味である──は、自分たちの身近な人間がいつの間にかコミュニストになっているかも知れないという恐怖を扇情的に描き、反共を訴えかけるのにまさにうってつけのジャンルであった。英語では「敵性外国人」のことを「エネミー・エイリアン」と呼ぶわけだから、共産主義のスパイがエイリアンとして描かれるのもいわば当然だったと言える。(もっとも、これらの映画に描かれるエイリアンたちは、当然、共産主義者だと直接名指されているわけではないから、今これらのSF映画を見る観客たちは、これらのエイリアンがはたしてコミュニストを表しているのか、それとも逆に、コミュニストたちを弾圧しようとするマッカーシーイスムを象徴しているのか、どちらに解釈していいのか時として分からなくなる)。
前置きが長くなってしまったが、レオ・マッケリーの『マイ・サン・ジョン』という映画は、実に、この〈侵略もの〉SF映画とほとんどそっくりと言ってもいい構造をしているのである。
この映画が描くのは、ごくごく平凡なアメリカの一家だ。2人の息子たち(二人とも絵に描いたような健全なラグビー選手である)が両親に別れを告げ、米ソ代理戦争の地と化していた韓国へと(アメリカを共産主義から守るために?)出征してゆくところから映画は始まる。そこに、長い間留守にしていた一家の長男ジョン(ロバート・ウォーカー)が帰ってくるのだが、息子の変化に父親はめざとく気づく。この父親(ディーン・ジャガー)は、ごくごく気のいい男ではあるのだが、聖書を盲信し、アメリカを共産主義の魔の手から救わなければならないと本気で考えていて、在郷軍人会に出かけていって稚拙なスピーチをしたりするような頭の硬い人間でもあった(彼がナイーヴな愛国主義によって書き上げた自作の稚拙な詩をジョンの前で披露するシーンは、この映画でもっとも滑稽でおぞましい瞬間のひとつである)。
ジョンと父親は、宗教や愛国心をめぐって何度も口論し合い、そのうちに父親は、ジョンが共産主義者になってしまったのではないかと疑うようになる。母親(ヘレン・ヘイズ)のほうは、3人の中でもとりわけ出来のいいお気に入りの息子ジョンのことを信じ切っていて、夫に向かって「あんたは頭が悪いんだよ」といって息子をかばう*2。しかし、あるとき父親がジョンのことをコミュニストと呼ぶのを聞いてしまってから、母親の中にも小さな不安が芽生えはじめる。母親はジョンに、自分は共産主義者ではないと聖書に誓わせ、それで安心する。しかし、父親にいわせれば、共産主義者たちにとって聖書などなんの価値もないのだから、聖書に誓ったからといって真実を語っていることにはならない。
そこに偶然(あるいは偶然を装って)、一人の男(ヴァン・へフリン)が母親に近づいてくる。やたらジョンのことに関心を示すこの男は、実はFBIの捜査官だということが判明する。ジョンは、折しも世間を賑わせていた共産スパイの女の事件と関わりを持っていたらしいのだ。そういえば、母親は、名前を名乗らない女からジョンにかかってきた電話を何度か取り次いでいた。こうして母親の内に芽生えた不安は徐々に大きくなってゆく。
慌ただしくワシントンに帰っていったジョンからの電話で、彼が置いていったズボンを届けに飛行機でワシントンまで出かけていった母親は、ズボンのポケットに入っていた鍵が女共産スパイの部屋の鍵だと知り愕然とする(母親がその鍵で部屋に入っていく様子を隠しカメラで撮影したフィルムを、FBI の捜査官たちが上映してみているシーンがまた気味が悪い)。母親からも糾弾され、FBIの捜査官の追及も厳しくなり、ジョンはいったん国外に逃亡を図るが、最後になって思い直し、自首することを決意する。だが結局、その前にコミュニストのエージェントによって殺されてしまう。
なんとも居心地が悪いのはその後に続く場面だ。ジョンは死ぬ直前に、自分が共産主義を信じたのは間違いだったと告白した音声カセットテープを残していた。彼の死後、そのテープの告白が、彼の母校のクラスで、無垢な眼をしたティーンエージャーたちに向かって再生されるのであるが、これがまたなんとも不気味なのである。その告白のなかでジョンは、父親と母親を愛し、尊敬していると語り、教育を悪魔にも等しい悪だと断定する。教育は「刺激剤」であり、
「この刺激剤は麻薬のようなものになります。常習性の麻薬の売人が、蛇のような狡賢さで、無知な人間に最初の接種を行うのと同じように、別の蛇たちが若者の欲望を満たそうと待ち構えているのです。今この瞬間も、ソヴィエトのスパイたちがあなた方を見張っているのです」
まるで、知性を持つことが悪の始まりであるかのようだ……。
すでにかなりの長文になってしまったが、もう一つどうしても指摘しておかなければならない。マッケリーがこの映画で断罪しているのは、共産主義や、反体制主義、あるいは、ハート=心を忘れて(マッケリーにとって、結局一番重要だったのは「ハート」なのである)あまりにも知性的になりすぎることだけではない。非常にさりげなくほのめかされているだけなのでわかりにくいのだが、『マイ・サン・ジョン』のジョン(ロバート・ウォーカー)は、明らかにホモセクシャルであることが暗示されている。それはたとえば、彼に女から電話がかかってきた時に、母親が「息子にはカノジョがいる」と大はしゃぎする場面などが逆説的に雄弁に物語っている。そして、この映画のジョンは、このホモセクシャリティにおいても同様に断罪されているのである。ジョン役にロバート・ウォーカーが選ばれた理由の一つがそこにあったことは間違いない(むろん、『見知らぬ乗客』で彼が演じた役と重なるからである)。
こんな映画を本当にあのレオ・マッケリーが撮ったのだろうか? たしかに、マッケリーの政治信条を知らずとも、『恋の情報網』における愛国主義の発露、『我が道を往く』『聖メアリーの鐘』のカトリシズムの顕揚、『善人サム』の愚かさこそ善なりといった主人公の描き方を見れば、彼がどちらかというと右寄りで、小難しい共産主義とはほど遠い人物であったとしても不思議ではない。いってみれば、『我が道を往く』や『善人サム』の底流に流れていたものを論理的に極端に突き詰めて出てきた結論がこの『マイ・サン・ジョン』だったのである。しかし、それにしてもこれはあんまりだという気がしないでもない。われわれが『我輩はカモである』に見たと思ったあのアナーキズムはいったい何だったのだろうか。
この時期のマッケリーを雄弁に物語るエピソードがある。1947に行われた非米活動委員会による聴聞会で、「ロシアであなたの『我が道を往く』が公開禁止になったのはなぜだと思いますか?」と訊かれたマッケリーは、「あの映画の中には〈神〉がいるからです」と答えたというのである。さらに、1950年には、セシル・B・デミルと一緒になって、監督協会のメンバーたち全員に忠誠宣誓(公職に就く者に要求される、反体制活動をしないという宣誓)を求めたといわれる。
マッケリーがこの映画で、共産主義を本気で糾弾しようとしていたことはほぼ間違いないのだろう。しかし、時として、極端はもう一方の極端にふれてしまうことがある。『マイ・サン・ジョン』の古めかしい愛国主義に凝り固まった愚鈍な父親の描き方は、あまりにも滑稽すぎて、もはやパロディにしか思えない。同様に、共産主義者だと分かったとたん、あんなにも愛していた息子を、怪物でも見るように見る母親の姿も、これまた哀れなほどに愚かしく、とても共感を呼ぶようには思えない。ひょっとしたら、この映画は、一見、反共プロパガンダ映画を装ってはいるが、実は、共産主義を盲目的に悪だと決めつけ、愚かしい愛国主義を押しつけてくる者たちをあざ笑っているのではないかとさえ思えてくる。だが、一方で、窮地から脱するために、母親を精神病院に入れようとさえ考えるジョンにも、やはりおぞましいものを感じずにはいられない。
この映画は時として、教育映画のような印象を見る者に与える。しかし、ではこの映画はいったい何を教えようとしているのだろうか。それが一向に判然としないのである。教育すべきことが判然としない教育映画とは、なんとも居心地悪いものである。
この映画をまがまがしいものにしている理由が他にもある。実は、映画の完成直前にジョン役のロバート・ウォーカーが亡くなってしまったのである。ジョンがワシントンから故郷の母親に電話をするシーンで、電話ボックスのウォーカーがほとんど目にもとまらぬほどの短いショットでインサートされ、しかも母親の音声しか聞こえてこないという奇妙な編集がされているのを見て、これはいったい何事かと思ったのだが、理由はこれだったのである。未撮影のシーンを残してウォーカーが死んでしまったので、マッケリーは仕方なしに、ヒッチコックの『見知らぬ乗客』の彼の出演シーンをこの映画に流用したのである。その結果、『マイ・サン・ジョン』のウォーカーには、コミュニストのスパイだけでなく、殺人鬼のイメージまでがオーヴァーラップすることになってしまったというわけだ。
この映画のことを前回取り上げなかったのは、リストの範囲を40年代に絞ったからという理由だけではない。単純に、この作品がまだソフト化されておらず、見ることがかなわなかったのである。これは日本だけに限った話ではなく、『マイ・サン・ジョン』という映画は、アメリカ本国においても、長い間なかなか見ることが難しい作品であり続けていたようだ(テレビでも、1970年以後、約40年間にわたって放映されることがなかったという)。この作品がハリウッドの反共プロパガンダ映画の中でもとりわけカルト作品になってしまったのには、これがいわば不可視の作品であったということも少なからず関係しているに違いない。それが今では、こんな映画でさえも、ブルーレイの美麗な画質で見ることができるとは、実にありがたいと同時に、なんともあっけない気がしてしまうのは、贅沢というものだろうか。
日本では未公開なので、「赤い疑惑」という副題は、テレビ放送時に付けられたものである(とりあえず、山口百恵に謝れといいたい)。
*1:1952年製作のハリウッド映画についての同時代の総括としては、例えば、マニー・ファーバーの「Blame the audience」(1952) という文章などを参照のこと。ちなみに、ファーバーは彼なりの論理で、この作品をこの年のベストフィルムの一つと考えていた。
*2:実際、この父親も母親も、教育の低い無知な人間として描かれている。マッケリー自身はこう語っている。「この両親には教育がありません。ふたりは全財産をつぎ込んで息子たちに高い教育を受けさせました。でも、子供たちのひとりが賢くなりすぎてしまったのです。これが問題を突きつけます。人はいったいどこまで賢くなれるのでしょうか? 母親が読んだことがある本はたった2冊、聖書と料理本だけです。それにしても、本当に賢かったのはどちらなのでしょう。母親でしょうか、それとも息子でしょうか?」