明るい部屋:映画についての覚書

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

クシシュトフ・ザヌーシ『カムフラージュ』


クシシュトフ・ザヌーシ『カムフラージュ』(Barwy ochronne, 77)
★★★


傑作だと思った。

わたしがこれまでに見たザヌーシの映画は、『結晶の構造』『イルミネーション』『家族生活』『太陽の年』『巨人と青年』のわずか5本に過ぎない。どれも興味深い作品だったが、実を言うと、心から面白いと思ったことは一度もなかった。しかし、この『カムフラージュ』は最初から最後まで本当に楽しめた。

クシシュトフ・ザヌーシは、68年に『結晶の構造』で長編デビューするのだが、これは70年に物価高騰に抗議する労働者たちによる暴動、いわゆる〈12月事件〉が起きたのをきっかけに、ポーランドがギエレク政権へと移行する時期とほぼ軌を一にしている。この政権下でポーランドは70年代の前半に〈奇跡〉の経済回復を遂げる。こうして、しばらくは政治的安定が保たれるのだが、70年代の後半になると、ギエレク政権は高度経済成長政策の失敗から深刻な経済危機を招き、76年6月にはふたたび物価高騰に抗議する労働者のストライキが発生する。80年にはストライキポーランド全土に波及し、ギエレクは辞任を余儀なくされる。そして、こうした流れの先にあの〈連帯〉が誕生するわけである。

簡単に言うならば、ポーランド人たちの自由を求める動きが、ソヴィエト体制下にある権力によってなんとか押さえつけられていた時代である。しかし、決して明るくはなかったこの70年代は、ザヌーシのフィルモグラフィーにおいて、多くの傑作が生み出されるもっとも実り豊かな時代だったと言われている。見逃している作品が山ほどあるので大きなことは言えないが、『カムフラージュ』はその中でも屈指の傑作であるとわたしは思う。


(ザヌーシはちょうど同じころに登場したキエシロフスキら同世代の映画作家らとともに、「モラルの不安派」などと呼ばれたりもする。この「モラルの不安」の元のポーランド語が正確に何を意味するのかは知らない。英語では "Cinema of Moral Concern" などと書くのが普通であるから、むしろ「モラルの問題」とか、「モラルへの関心」ぐらいのほうが近い気もするのだが、「モラルの不安」という日本語がある程度流通している。
手元にある『巨人と青年』の劇場用パンフレットには、「ポーランド社会主義体制になり、政治経済ら、あらゆる領域で多くの問題を残した。基本的人権の無視、言論統制による真実に触れることへのタブー、官僚政治の汚職と腐敗など。国民とくに若者たちに政治への無関心、社会主義への不信を生み、個人的モラルの欠如へと結びついた。こうした政治、社会問題をカメラを通して洞察し、あるがままの現実をえぐり出して国民に訴え、ゆがんだモラルを正そうという作家たちのこと」と書いてある。こうしたレッテルというのは、ほとんどの場合、作家たち本人ではなく、批評家などによってつけられるもので、往々にして的をはずしているものである。少なくともザヌーシの場合には、誤解を招きかねない表現なので、ここでの「モラル」とは「政治」とほぼイコールであるぐらいに思っておいたほうがいいのではないか。つまりは、直接政治を描くことができないので、モラルの問題を通して政治を描いた映画、それが「モラルの不安」と呼ばれる作家たちの映画であると。)



『結晶の構造』


ポーランドのとある大学で言語学の夏期キャンプが数日にわたって行われている。ここで学生たちが言語学についての研究発表を行い、優秀な論文が審査されるのである。これがこの映画の唯一の舞台である。この研究発表会の審査員として新しくやってきた大学助手、若きヤロスワフは、同じく審査を担当している古株の教授ヤークブとのっけから対立しあう。ヤロスワフはまっすぐな性格で、理想主義者だが、軽率で思慮が足りないところがある。一方、経験豊富な年長者ヤークブは狡猾な出世主義者で、何もかもをシニカルな眼で見ている。映画は、次第に激しくなっていくこの二人の対立関係を軸に進んでゆく(この二人の対立は実は見かけほど単純ではないのだが)。ヤークブは折にふれて、ヤロスワフのナイーヴさをからかい、挑発し、まるでメフィストフェレスのようにヤロスワフを抜き差しならぬ状況へと導いてゆくことになるだろう。


ザヌーシの映画がしばしば科学者やエンジニアらを主人公にしてきたことはよく知られている。ザヌーシ自身が最初は大学で物理を学んだということももちろんあるだろう。しかしそれだけではない。セルジュ・ダネーも指摘するように、この時代の東欧の社会主義国の多くがそうだったように、ポーランドでも直接的に権力を批判することは難しかったが、「科学の権力=権威」を批判するこことなら可能だったからである。『カムフラージュ』に登場するのは科学者でもエンジニアでもなく、言語学の研究者たちだが、広い意味でサイエンス=知に携わるものである点では彼らも科学者と変わりない。


この『カムフラージュ』もいくつかのレベルで見ることができる映画である。

一つ目は、ごく表面的な物語が語るとおりの映画として。

そのように見たとき、この映画は、大学を舞台に、理想に燃える善玉教師(ヤロスワフ)と体制ばかりを気にするシニカルな悪玉教師(ヤークブ)の闘いを描いた、例えば『青い山脈』のような映画(全然関係のない古い日本映画だが、この映画を見ているときにふと思い浮かべたので)と、そう大差ない物語を語っているように見えなくもない。


二つ目は、大学の夏期キャンプを、同時代のポーランドの社会を映し出す陰画として描いた映画として。

この一見社会とは隔絶されたように見えるアカデミックな世界にも、腐敗した政治、序列をめぐる不毛な闘い、硬直した制度、階級格差といった、現実社会のゆがみが様々な形で見え隠れしている。学生たちが貧しい食事をする一方で、教授たちは豪勢なディナーを楽しんでいる。論文の審査は、斬新さや想像力ではなく、(党によって)認められている規範にどれがいちばん近いかによって判断される。いちばんわかりやすいのはプールのシーンだろう。キャンプのあいだ空になっていたプールが、最終日近くになって、突然、きれいに掃除され、水を入れられる。最終日にやってくる大学総長がそこでひと泳ぎ(というか、ひと飛び込み)する、ただそれだけのためにプールに水が張られるのだ(このシーンに限らず、この太っちょの大学総長が登場する場面は、この映画のもっともコミカルな部分になっている)。


ヤロスワフとヤークブの対立は最初、一人の学生の論文をめぐって始まる。提出期限がわずか一日遅れただけの論文をヤークブは、「ルールはルールだ」といって冷たく拒絶する。理想主義者のヤロスワフは、その型破りの論文を認めるようにヤークブを説得する。ヤークブは結局その論文を認めることにするが、「君はこの結果を受け止めることができるのか?」と不敵な笑いを浮かべながらヤロスワフに警告する。実は、やがてここを訪れることになっている大学総長は、その問題の学生(彼は別の大学から来ているのだが)の指導教授を嫌っていたのだ。ヤークブは、そういう大学内の政治を知り尽くした上で物事を判断しているのだが、ヤロスワフにはそういったことはまったく見えていず、単純によい悪いですべてを性急に判断することしかできない。ヤロスワフは、この論文を認めさせたことで、後々、自己矛盾とでも言うべき袋小路へと追い込まれてゆき、事態はとんでもない結末を迎えることになるのだ。


三つ目は、ポーランドという一地域に限定されない普遍的な寓話として。

最初は、いつも人を小ばかにしたような薄笑いを浮かべたいけ好かない人物と思えたヤークブも、実は、若いころはヤロスワフのように理想に燃えていた時期があったのかもしれない。しかし、そのように真っ直ぐなだけでは必ず壁にぶつかる。彼はそれを警告するために事あるごとにわざとヤロスワフを挑発していたのだろうか。愚かな理想主義と、利口な折衷主義、果たしてどちらが正しいのか。例によってザヌーシは結論など与えてはくれない。次第に緊張感を増していく二人の対立は、最後についに取っ組み合いのけんかにまで発展するのだが、結局、どちらが勝つでもなく、負けるでもなく、向かい合った二人を置き去りにして映画は終わる。喜劇でも、悲劇でもなく、笑劇として。



『イルミネーション』


「カムフラージュ」というタイトルも様々な意味に解釈が可能だろう。わたしはポーランド語のことはまったくわからないのだが、原題の "Barwy ochronne" は直訳すると「糞の色」(失礼)という意味になるとも聞く(違うかもしれない)。映画のタイトルバックが、かえるやイモリなどの冷血動物のイラストで始まっていることを考えるならば、「カムフラージュ」は動物的な「擬態」をまず連想させる(あまりふれる余裕がなかったが、ヤークブはいつも双眼鏡を片手に鳥などを観察していて、ダーウィン的な弱肉強食を肯定し、それを人間社会にも当てはめて考えているようなところがある。彼は、ヤロスワフがキャンプの間に知り合い、一時いい感じにもなったイギリス人女性(彼女は、小鳥を襲わないように野良猫に鈴をつけさせる)が、別の男と水辺で裸で抱き合っているところを、ヤロスワフにわざわざその双眼鏡で目撃させるのだ。「自然」はこの映画のいま一つの隠れたテーマである)。

カムフラージュ:偽装、迷彩、だまし、ごまかし。この言葉はすべてが見かけどおりではないことを意味している。悪意に満ちているように見えるヤークブは、実は、若い世代が現実を生き抜くための実践的な指導者なのかもしれないし、彼自身、ある意味、犠牲者だったのかもしれない。何も間違ったところがないように思えたヤロスワフは、最後には、偽善者のように思えてくる。一見政治とは無縁に見えるアカデミックな世界にも政治は隠れているし、一見政治的ではないこの映画自体も、非常に政治的な映画である……。



ポーランド映画に限らず、東欧の映画というのは、歴史に詳しくないとなかなか理解できない部分も多く、単純に楽しめないことが少なくない。この作品にも、ポーランド人が見れば誰にでもわかるが、そうでないものには見過ごされてしまう細部が多々あるのだろう(そんな細部の一例を挙げておこう。ザヌーシは、この映画と同じ年に撮られたアンジェイ・ワイダの『大理石の男』で使われた銅像をセットに運ばせ、ヤロスワフとヤーコブが歩きながら激しく議論しあう場面で、二人をわざわざその彫像の前で立ち止まらせるのだ。これはいったい何を意味しているのだろう?)。
しかし、同時に、『カムフラージュ』は、ポーランドのことなど何一つ知らないものが見ても、ここに描かれているのは自分がおかれている状況のことだと思えるような、そんな作品にもなっている。単純に見ても楽しめるし、見直すたびにきっと新しい発見があるに違いない。そんな奥の深さを感じさせるところが、この映画の魅力である。