「『路上での偶然の出会いの物語』とモリスの呼ぶこの見事に様式化されたドキュメンタリーは、エドガー・G・ウルマーの『恐怖のまわり道』のように容赦のないほど運命論的であり、『ブロンドの殺人者』の夢のシークエンスのように奇妙に芸術的であり、『過去を逃れて』のように複雑で、『D.O.A.』と同じぐらい張り詰めていて、モリスがこれ以前に撮った2作同様、かれにしか撮れない映画である」(J・ホバーマン)
エロール・モリス『The Thin Blue Line』(88) ★★★
スクリーンに現れるタイトル "The Thin Blue Line" の "Blue" の文字だけが赤い色になっている。この赤は、デイヴィッド・ボードウェルの言うように、冒頭のダラスの高層ビルの風景に点滅する赤色灯、パトカーの赤いライト、さらには事件を担当する判事がほとんど脱線気味に語るデリンジャーの映画のラストの射殺場面に出てくる「赤い服の女」(ライトのせいでそう見えただけで、本当は赤ではなかったというのだが)、といったぐあいに「赤」のテーマとして作中に繰り返されていくと考えることもできるのだろうが、単純に、 "the thin blue line"(警察は文明をアナーキーから分かつ細い青い線だという意味がこめられている)という言葉が、もともとは『ジャングル・ブック』で知られるイギリスの詩人キップリングが、イギリスの兵士は国を敵から守る細い赤い線だという意味で使ったとされる "the thin red line" という言葉から来ているということを思い出させる*1(言うまでもなく、これはテレンス・マリックの映画のタイトルでもある)。「赤」という色が使われているのは、イギリス兵の軍服の色を指していると言う。調べたわけではないが、おそらく、"the thin blue line" の「青」は、警察の制服の色と関係があるのだろう。
1976年、ダラスで、深夜パトロールをしていた男性警官が、おそらくはライトの故障を注意しようとして停車させた車のドライバーに射殺されるという事件が起きる。情報は少なかったが、犯人の車の車種(それも最初は情報が錯綜する)などから、警察は当時16歳の少年デイヴィッド・ハリスを逮捕。事件当日、ハリスは犯行に使われた車を盗んで走らせていて、警官を殺したピストルも彼が家から持ってきていたものだった。ハリスが事件の犯人は自分だと自慢していたという友人の証言もあり、かれが犯人だと思わせる点は山ほどあったにもかかわらず、結局、警察は、ハリスの証言から、犯行のあった日、かれがたまたま車に乗せた男ランドール・アダムスを犯人として逮捕し、ハリスは釈放される。アダムスは一貫して無実を主張するが、状況証拠や様々な証言から、裁判では有罪判決が下り、死刑を宣告される。
1985年、エロール・モリスは、その後終身刑に減刑されて約10年間投獄されていたアダムスに会って話を聞き、彼が無罪であることを確信する。こうしてこの映画は撮り始められたのだった。モリスの前2作、『天国の門』『ヴァーノン、フロリダ』は風変わりな主題を扱ったドキュメンタリー映画で、一部批評家の注目を集めはしたものの、興行的にはまるでふるわなかった。しかし、この3作目のドキュメンタリーは予想外に大ヒットし、一時は探偵の仕事までして生活費を稼いでいた*2モリスに、ドキュメンタリー作家としての地位を確立させる。しかし、それ以上に重要なのは、この映画のヒットが大きなきっかけとなって、ランドール・アダムスの無実が証明されて、釈放されたことである。
しかし、ここまでの話を聞いて、犯罪を扱ったよくあるテレビのドキュメント番組のようなものを想像した人は、この映画を見て面食らうに違いない。犯行場面の断片的な再現シーンに始まった映画は、現在投獄中のアダムスと、その後数々の犯罪を犯して死刑を宣告されているハリス、捜査を担当した刑事、ハリスの友人、アダムスの弁護士たちなどのインタビューを中心に組み立てられてゆくのだが、そこで語られる内容は時系列に沿っているとは言い難い。おまけに、この映画にはナレーションがまったくなく、説明的な字幕も皆無である。しかも、インタビュー中心に構成されているにもかかわらずインタビューされている人物の名前さえ画面に提示されない(スタイルはまったく異なるが、こういうところだけはこの映画はフレデリック・ワイズマンに似ている)。たびたび引用される新聞などのテキストも、時にあまりにもアップで撮られていて、何が書いてあるのかほとんど判読できない場合も少なくない。こうして、観客は与えられた情報を頭の中で並べ替えて事件を整理することを余儀なくされる。
この映画でもっとも印象的なのは、警官射殺事件の再現シーンだ。ドキュメンタリーのなかで再現シーン(re-enactment) を使う手法は、あの有名な「The March of Time」などでもすでに見られるというから、それほど目新しいものではなかったはずだが、こういう手法が一般化するのはおそらくこの80年代になってからであったと思う。しかし、『The Thin Blue Line』でモリスが使った再現シーンは、同時代のドキュメンタリーで使われる再現シーンとはまるで性格を異にするものであったと言っていい。
テレビの犯罪ドキュメント番組に使われる再現シーンというのは、演技も照明もいかにも安っぽく、またテロップなども多用されるのが普通だ。きちんと撮られている場合でさえ、結局のところそれは説明的な〈付け足し〉でしかない。『The Thin Blue Line』の再現シーンはそうしたありきたりの再現シーンとはまったく別物である。モリスは、アダムスが犯人とされることになる警官射殺事件を、まるでフィクション映画の、もっと言うならばフィルム・ノワールの、一場面のように撮っている*3。現場となった夜のハイウェイは丁寧に照明を当てられ、手持ちカメラとズームといった安易な手法を避けて、短いフィックス・ショットの積み重ねによって編集されている。そして、ここには説明的なテロップは一切使われていない。モリスは再現シーンを、ある意味、過剰にフィクション化していると言っていいだろう。
しかもこの中心となる事件の再現シーンは、様々な証言が食い違いを見せるにつれて、微妙に細部を変えながら(射殺された警官の相棒だった女警官は車の中にじっと座っていたのか。それとも、車の外にいたのか?)映画のなかでで何度も再現されてゆく。モチーフを延々と繰り返すフィリップ・グラスの、単調であると同時に、不安で不気味なミニマル音楽と相まって、それはやがて悪夢のような様相を呈していくことになるだろう。
「検察が描く事件のストーリー」などという時の〈ストーリー〉が、フィクションでしかないように、モリスは、再現シーに描かれる〈ストーリー〉がフィクションでしかないことをあからさまに強調してみせる。アダムスが犯人だと主張するハリスの証言も、その証言に乗っかって事件を組み立ててゆく検察側の主張も、さらには無実を主張するアダムス自身の語る事件の真相も1つの〈ストーリー〉にすぎない。モリスがこの映画で、ドキュメンタリーは真実を、あるいは現実を、ありのままに描くという通念に疑問を投げかける(ドキュメンタリーとフィクションを隔てるか細い線)。この映画が「ポストモダン的ドキュメンタリー」などと呼ばれもする所以である。
もっとも、『羅生門』のように、だれが真相を語っているのかわからないと主張することがこの映画の目的ではない。モリスがアダムスの無実を訴えたかったというのは本当だろう。ただ、かれは、アダムスは無実で、真犯人はハリスであるという結論ありきでこの映画を撮っていない。少なくとも、そのように映画を組み立ててはいない。事件についてのアダムスの主張と、ハリスの主張は細部において食い違いを見せ始めるが、モリスは二人の証言を並べてみせるというような安易な編集を極端に嫌ったという。それでも、最終的には、多くの観客がアダムスの無実を信じ、ハリスが真犯人であると考えるようになるのだから、観客はやはり操作されているのだと言うこともできるだろう。しかし、それはあくまで、与えられた情報のなかから観客が自分で選び取った〈ストーリー〉である。結局、無数の物語のなかからもっともありそうな物語を選ぶしかないのだ。
フィクションということで言うなら、このドキュメンタリーには、様々なフィクションが異例のかたちで引用されている。冒頭にふれた判事の語るデリンジャーを描いた映画や、アダムスとハリスがドライヴイン・シアターで見るソフト・ポルノ(モリスは、その映画のなかから、登場人物の女が自分の無実を訴える場面をわざわざ引用してみせる)、とりわけ、事件の目撃者と名乗る女(やがてその証言の信憑性が極めて不確かなものとなって行く)が、自分は幼い頃から探偵にあこがれていたと嬉々として語る場面で、「Boston Blackie」シリーズという探偵の女助手が活躍するいかにも安っぽいテレビドラマが引用される場面などでは、映画はほとんどパロディに近づく*4。
これらのフィクションの引用は、すべての証言者の証言が大なり小なり主観的なものであることを暗に指し示してもいる。もっとも、それは直ちに彼らの証言が無意味であることを意味しはしない。一見脱線としか思えないデリンジャーの最後の瞬間に登場する「赤い服の女」のドレスの色が実はオレンジ色だったという話は、人が簡単に見誤ることを証明しているし、アダムスの起訴を運命づけたと言ってもいい証言をした女が見せる探偵ドラマへのファンタジーは、彼女が偽証した潜在的動機を説明してもいる。
この偽証をした女にしても、アダムスを尋問した刑事にしても、さらにはハリスでさえことさら悪意を持って描かれていないことにも注目したい。かれらが必ずしも悪意を持ってアダムスを犯人に仕立て上げたのではないことは、考えてみれば、逆に恐ろしいことだ。かれらが根っからの悪人であってくれたほうがむしろ救われただろう。それぞれが、自分たちの見ている世界が〈現実〉であると信じ切っていた。大げさに言うならば、彼らにはそれ以外の世界が見えなかったのである。そこに偶然が加わったとき、アダムスは犯人にされてしまったのだ。
正直、それほど好きな映画でもないのだが、ドキュメンタリー映画史上極めて重要な作品であることは間違いない(たとえば、2014年に「Sight and Sound」が行ったドキュメンタリーのオールタイム・ベストで『The Thin Blue Line』は5位に選ばれている)。ドキュメンタリーにおける編集のあり方など、いろいろ考えさせられる映画である。ドキュメンタリーの教科書としても使えそうだ(むろん、これが模範だという意味ではない)。
余談だが、この映画がきっかけで釈放されたアダムスは、モリスを相手に訴訟を起こすことになる。モリスによって自分の物語の権利が不当に搾取された、というのが彼の主張だった……。
*1:最初は、クリミア戦争における英国の軍事行動を指して使われた言葉だったらしいが、ワーテルローの戦いの時にすでにこの表現があったという話もある。キップリングの詩によってこの表現が比喩として広まったのかどうかも確認できていない。いずれにしても、瀬戸際で戦う兵士たちのことを指す表現であることだけはたしかである。
*2:あとで見るように、『The Thin Blue Line』が、断片的な事実や細部から観客自身がいわば探偵となって真実を導き出すように作られていることを考えると、モリスが探偵の仕事をしていたことは、この映画と無関係ではないようにも思える。
*3:冒頭に引用したホバーマンもそうだが、この作品とフィルム・ノワールとの類似性は多くの人が指摘している。それにしても、このホバーマンの言葉はドキュメンタリー映画を表した言葉とはとても思えないのだが、作品を見れば皆納得するだろう。
*4:ドキュメンタリー映画にフィクションが引用されるのはそれほど稀なことではなかったと思うが(たとえば『ハーツ・アンド・マインド』(74) やダイアン・キートンの『Heaven』(87) など)、それをドキュメンタリーにおける主観性の問題と絡めてここまで掘り下げたこの映画は、やはり当時としては非常に新しいスタイルだったと言っていいだろう(もっとも、ドキュメンタリーにおけるフィクションの問題なら、たとえばジャン・ルーシュなどが早くから別のかたちで問題提起していることではある)。