ナサニエル・ウエスト『いなごの日』
フィッツジェラルドやフォークナーなどと同様、ハリウッドで映画の脚本を書いていたこともある*1小説家、ナサニエル・ウエストがその頃の体験をもとに書き上げた代表作『いなごの日』。意外と読んでいなかったので、時間の余裕のある今のうちに読んでおくことにした。
主人公のトッド・ハケットは美術学校時代にスカウトされ、ハリウッドで絵描きとしてセットと衣装のデザインの仕事をし始めたばかりの、美術監督の卵。彼は新しい住居で出会った若くて美しい女性フェイ・グリーナーに一目惚れする。彼女もまたスターになることを夢見ている女優の卵だった。ふたりはすぐに親しくなるが、フェイはトッドのことを男としては見ておらず、そのことを最初から彼に向かってはっきりという。それでも彼女にどうしようもなく惹かれる気持ちを抑え、距離をおいて関係をつづけようとするトッドをよそ目に、フェイは、自分に吸い寄せられるようにして集まってくるさまざまな男たちと、時には娼婦のように奔放に振る舞うのだった……。
ハリウッドを描いたと言っても、ここに出てくるのはフィッツジェラルドの『ラスト・タイクーン』に描かれるようなハリウッドの敏腕プロデューサーや有名俳優ではなく、その底辺にうごめくものたちにすぎない。フェイの父親である哀れで滑稽な道化師、なにをしているのかよくわからないメキシコ人、凶暴な小人……。リアルであると同時に、グロテスクでもある登場人物たち。何度か繰り返される「カリフォルニアに死にに来た人たち」という言葉は、正確にはなにを意味しているのだろうか。この小説のなかで実際に死ぬのは、病死するフェイの父親だけである。しかし、どの登場人物も、自分の夢、アメリカン・ドリームをここに葬りに来たようにみえる。夢の工場=夢の墓場、ハリウッド。
ハリウッドを舞台にしただけの風俗小説という側面もあり、最初はいささか退屈でもあるのだが、ラスト、映画のプレミア試写に集まった盲目の群衆の波にトッドが飲み込まれてゆくさまを、黙示録の絵図のように描くモブシーン(と言いたくなる場面)はなかなかの圧巻だった。
タイトルの「いなごの日」は聖書から来ていて、モーゼがエジプトの王に対していった言葉のなかに、さらには、黙示録のなかにも、いなごの大群が出てくる。いずれにおいても、いなごのイメージは世界の終末を意味するものとして現れると言っていい。この小説のラストの暴動のシーンは、まさにその黙示録的イメージをウエスト独自の目を通してシュールに描いたものだ*2。
75年にジョン・シュレシンジャーが、ドナルド・サザーランド、カレン・ブラックの主演で『イナゴの日』として映画化している(「イナゴ」とカタカナ表記になっている点に注意)。映画と原作の違いについては、ポーリン・ケイル『Reeling』(どこかに日本語訳があったかもしれないが、未確認)などを参照。
ただ、好みで言うなら、同じ新潮文庫に収録されている『クール・ミリオン』のほうがずっと面白かった。貧しさから家を奪われてしまった少年が立身出世を目指して旅に出るが、次々と嘘のように災難が降り掛かってきて、歯を、片目をというふうに身体を徐々に失ってゆくという壮絶な物語が、ピカレスクロマンふうに語られてゆく。『いなごの日』と同じく、アメリカン・ドリームを裏返したような物語であるが、これを読むと『いなごの日』が普通のリアリズム小説のように思えてくるほど、この二つの小説はまったく異なるスタイルで書かれているところが面白い。いささか現実離れした荒唐無稽な小説ではあるが、吝嗇な(というイメージの)ユダヤ人への憎悪、コミュニズムに対する漠とした不安、この憎悪と不安を煽るようにして台頭してきたファシズムという、30年代のアメリカの現実を、ある意味、『いなごの日』以上に如実に描き出しているのが特徴だ。