明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

『取り替え子』を読み終える

「もう死んでしまった者らのことは忘れよう、生きている者らのことすらも。あなた方の心を、まだ生まれてこない者たちにだけ向けておくれ。」大江健三郎『取り替え子』


映画をよく知っている者には、『取り替え子』は多少複雑な思いを抱かせる小説かもしれない。

大江健三郎が、松山での高校生時代からの親友であり、妻の兄に当たる映画監督、伊丹十三をモデルにしたといわれる(そして、それは明らかなのだが)この作品のなかで、伊丹十三(作品のなかでは、塙五良という名前になっている)は、大江が憧憬の念を抱くほど才能豊かな映画監督として描かれている。それだけならともかく、まるで黒沢清(これも当然名前は出てこない)は伊丹十三に映画を教わったといわんばかりの描き方がしてあるのを読んで、それは違うだろうと思った人は多いはずだ。

商業映画の分野ですでに成功を収めていた伊丹が、自主映画の世界からポルノ映画をへてメジャー映画路線へと出て行こうとしていた黒沢清に、業界の「ノウハウ」を教えたことはあるかもしれないが、映画とはなにかについて黒沢が伊丹から学んだことなどほとんどなかったに違いない。だれがどうみても、黒沢清のほうが伊丹十三よりも圧倒的な映画的才能に恵まれていることは明らかなのだから。

ある意味で被害妄想的な悪意とともに、坂本龍一浅田彰など、様々な人物が暗に言及されているこの小説において、特に映画に関して読んでいて違和感を覚える部分が多いことは否定できない。

五良=伊丹が不可解な自殺を遂げたあとで、古義人(cogito!)=大江は、五良が彼あてに残した音声テープ・システム(田亀)を通じて、「向こうの世界」にいる五良と対話を行うことが密かな習慣となり、それになかば溺れてゆく。その死者との対話が、どこにも行き着かない白熱した無意味さとでもいうべき様相を呈してきたとき、テープに吹き込まれていた五良自身の勧めにも従って、古義人=大江はかねてから話のあったベルリン自由大学での教授職を受諾することを決意する。このベルリンでの滞在は物語の展開に大きく関わってくることになるのだが、それはともかく、そこで折しも行われていたベルリン映画祭で、古義人はドイツ人の映画監督にある撮りかけの作品を見せられる。

それは、彼の小説『ラグビー試合一八六〇』(もちろん、『万延元年のフットボール』のこと)をそのドイツ人監督が映画化したものらしい。その制作中の映画の断片には、一八六〇年の百姓一揆の場面が、現代の英国チームとドイツチームのラグビー試合に唐突にモンタージュされた場面が映っているのだが、そのどう見てもくだらなさそうな映画を見て、古義人はすばらしいといって感心する。その映画はどうやら、五良=伊丹のシナリオと演出方針にもとづいて撮られているらしく、それを確信した古義人は、ドイツ人監督のなかば強引な要求にも応じてしまう。

大江が伊丹の自殺後ベルリンに渡ったのは事実として確認できるが、そこでこのような出来事があったのかどうかはわからない。「あの監督を先導者として、ドイツのニューシネマは出発した」という言葉から推測すると、そのドイツ人監督はひょっとしたらフォルカー・シュレンドルフあたりのことを指しているのかもしれないのだが、おそらくはこの場面は全体としてフィクションなのだろう。いずれにせよ、このあたりを読んでいても、大江健三郎という人はあまり映画がわからなかったのだろうなという気がしてくる。

しかし、結局はそんなことはどうでもいいのだ。

正直いって、それほど無我夢中で読んだわけではないのだが、終章の「モーリス・センダックの絵」にいたって、ようやくタイトルの「取り替え子」changeling の意味するものが明らかとなり、それが作品全体を貫いてゆく主題であったことがわかるとき、じわじわとした感動がおそってきたのはたしかだ。そこで語られる、五良のスキャンダルの原因ともされる若い女性との、ひたすらキスだけで上りつめてゆく体験、いかにも大江的といえる性的体験の清々しい官能性にも心惹かれるものがあった。

伊丹十三が真の映画作家であったかどうか、わたし自身は疑わしいと思っている。だが、大江健三郎が真の作家であり、そして今もありつづけていることだけは、この小説は確信させてくれる。

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後半で重要なモチーフとなるモーリス・センダックの絵本『かいじゅうたちのいるところ』は、ホウ・シャオシェンの『珈琲時光』でも重要な役割を果たしていた。
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