明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

あなたは「モナ・リザ」をハサミで切れますか


右足の靴の裏がはがれたので、接着剤でくっつけて使っていたのだが、しばらくするとまたはがれてくる。そのうち、大丈夫だった左足の靴まで、町を歩いているときにチャップリンのどた靴みたいにぺろんとはがれてしまった。

そろそろ限界だと思って、近くのスーパーに安物の革靴を買いに行く。そのついでに、『ダ・ヴィンチ・コード』を見に行った。

田舎の映画館なのでふだんは客はまばらなのだが、今日は月の初日のサービスデーとあって、結構な数の客がはいっている。まったく、これだから貧乏人は困るねェ。


さて、本編『ダ・ヴィンチ・コード』が始まる前に予告編が上映されたのだが、妙なことに、スクリーンいっぱいにカーテンが左右に引かれているのに、予告編の映像はその真ん中あたりに小さく映し出されるだけなのだ。マスキングがされていないので、画面の周りはぼんやりと光を帯びて白っぽく見えたまま。そのうち画面サイズが変わるだろうと思っていると、いつまでたってもそのままなので、だんだん不安になってくる。映写技師はフィルムをかけたあと眠ってしまったのかもしれない。このままのサイズで本編が始まるんじゃないだろうか。いやいや、本編は別の映写機で回すんだから、そっちのほうはちゃんとスクリーンにサイズを合わせているはずだ。しかし、このままのサイズで本編が始まったらどうしよう。ゴダールの『男性・女性』のジャン=ピエール・レオみたいに、「サイズが違う!」といって映写室に怒鳴り込むような強者はなかなかいない。今までの経験からいって、こういうときは、うすうす変だと思っていながら、客のなかでだれひとり立ち上がるものがないのがふつうだ。それどころか、たいていのことは変だとは思わないのが、最近の客なのだ。


これは前にあるメルマガで書いたことだが、大阪のシネマ・ドゥという映画館にジョン・カーペンターの『ゴースト・オブ・マーズ』を見に行ったときのことだ。楽しみにしていた映画なのだが、上映がいよいよ始まると、見ているうちにどうも画面が妙だと気づいた。画面が上下に押しつぶされたようにゆがんでいて、登場人物がみんな小太りの体格に見えるのだ。どう見てもサイズが間違っている。そう思ったのだが、その小さな劇場いっぱいにはいっている2,30人ほどの客のだれひとりとして動こうとしない。それどころか、画面が変だと思っている人はだれもいないようなのだ。そのうち、前のほうに座っていたひとりが立ち上がって出ていったので、文句をいいに行ってくれたのだと思ってほっとしていると、やがてその男性が帰ってきた。しかし、画面はそのまま。ふだんは、わたしはこういうとき動かないのだが、さすがに業を煮やして、意を決して立ち上がると受付に苦情をいいに行った。どうやらさっきの客も同じ文句をいいに来たらしい。

その受付嬢の説明を聞いて唖然としたのだが、これはミスというよりも確信犯でやっていたらしいのだ。映画館の構造上、スクリーンに画面をあわせるとこうなってしまうというのだ。技術的なことはよくわからないけれども、ごくふつうのビスタサイズのはずの映画がちゃんとスクリーンに収まらないはずはないのだ。だいたい話が逆だろう。スクリーンに無理やり映画をあわすのではなく、映画にスクリーンをあわせるというのがふつうの発想ではないか。PLANET studyo plus one の安井氏なら、「おかしいでんな」とかいいつつなんとか問題を解決するはずだ。それができないような映画館なら、映画館を名乗る資格はない。

結局らちがあかないので、そのまま席に戻った。今思い返せば、「金を返せ」といってそのまま帰ればよかったと後悔している。席に戻るときに、右隣の客の脚をよけるようにして通って戻ったのだが、そのときその客が「チッ」と舌打ちするのが聞こえた。みんなのために自分が犠牲になって文句をいいに行ったつもりだったのだが、ほかの客にはそれは伝わっていなかったようだ。腹が立つというよりも、なんだか悲しくてむなしくなった。この客はこのへんな画面を見ても、何とも思わないのだろうか。それほど今の観客は鈍感でレベルが低くなってしまったのか。

これが原因というわけではないだろうがまもなくしてその映画館はつぶれてしまった。しかし、プロ意識のかけた映画館は最近では少なくない。

例を挙げればきりがないが、これもすでにつぶれてしまった京都朝日シネマという映画館で小津安二郎の大回顧上映が行われたとき、あろうことか小津の映画が、画面の上下を無惨に切られたかたちで上映されたのだ。このときは友人が文句をいいに行ったのだが、やはり映画館の構造が原因で、スタンダードサイズではちゃんと上映できないとの説明だった。だったら上映を引き受けるなといいたい。もしもダ・ヴィンチの「モナ・リザ」の絵の上下をハサミでちょきちょき切ろうなどしたものなら、世界的大問題になるのは間違いない。しかし、映画館では小津の映画を平気で切ってしまうのだ。そして、大部分の観客は、「なに細かいこといってるんだよ」といって、そんなこといちいち気にもとめないのだ。

客の意識が低ければ、こういう映画館はこれからもどんどんふえていくだろう。暗澹たる気分になる。


さて、『ダ・ヴィンチ・コード』本編は、ちゃんとスクリーンいっぱいに映し出されるかたちで始まったので、一安心した。これまでいろんな映画館でいろんな映画を見てきたが、予告編だけサイズが違うというのは初めてだ。そうしないといけない技術的理由がはたしてあったのか。ダ・ヴィンチの謎に勝るとも劣らない謎である。