明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

成瀬巳喜男にそなえて、生活を変える。


最近、夜型生活がさらに進行し、寝る時間が前にもまして遅くなってきた。たまに朝早く起きなければならないことがあるとつらい。今週末から、京都のみなみ会館で、成瀬巳喜男の『杏っ子』と『夜の流れ』がかかるので、それにあわせて朝型に生活を変えておかないと。

『夜の流れ』は川島雄三と共同監督した作品で、田中真澄・阿部嘉昭などの編集による『映画読本 成瀬巳喜男』(フィルムアート社)ではすこぶる評価が低いが、この本は読んでいてつまらないだけでなく、あまり信用もできない。実際に映画を見ずに、当時の評価をそのまま書いて判断しているような節もある。これを読んで成瀬の作品を見逃した人がいるとすれば、不幸なことだ(とりあえず、資料としては役に立つ本だが)。

今はほとんど疎遠になっている昔の知り合いに、田中真澄と懇意にしている人がいた。その人とどこかでばったり会ったとき、今から田中真澄に会うのでいっしょに来ないかといわれたが、用があるのでといって断ったことがある。そんなことを急に思い出した。たぶんこの人とは話が合わないような気がするのだが、一度会っておいてもよかったかなと後悔している。本人は案外おもしろい人だったのかもしれない。

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テレビで見た映画について簡単にメモする。


クロード・ルルーシュ『男と女』

カンヌでグランプリを取り、日本でも一世を風靡した恋愛映画。何十年ぶりかに見直した。というか、ノーカットでちゃんと見るのは初めてだったかもしれない。ジャン=ルイ・トランティニャンが子供に車を運転させている場面で、ゴダールをまねたジャンプカットを使っていたりする。恥ずかしげもなくといった感じだ。ルルーシュ自身の撮影によるソフトフォーカスの画面がきれいですね、と最低のほめ言葉しか浮かんでこない。感覚的なカラーとモノクロの使い分けとか、ひたすら自堕落。

山田宏一『友よ、映画よ』には、山田宏一がプロデューサーのピエール・ブロンベルジェルルーシュを紹介してもらったときのエピソードが書かれている。そのときルルーシュは、スコピトンといわれる歌謡映画のフィルムを抱えて試写室にむかうところだった。その試写の様子。

スクリーンではダリダが歌っていた。歌っているあいだに、なんどか脈略なくシャンゼリゼ大通りを走る車とか公園を歩く男女のカットが入ってきた。それでも、ときどきダリダの口が歌にあっていない部分があった。ルルーシュはそのたびに、編集担当らしい若者にむかって叫んだ──「ドキュマン! ドキュマン!」。

もっとドキュマン、つまりドキュメント、実写のフィルムの断片をインサートして、うまく音と画がシンクロするようにしろというのだった。

ルルーシュの映画の美学というのは、要するにこれなのだ。「甘美なメロディーが流れていれば、どんなにつながりのない映像のモンタージュでも情緒的には統一性を獲得できるというわけだ」と山田宏一は結論している。そのあとに、ジャン=アンドレ・フィエスキによるルルーシュ評が引用されているのだが、「映画監督という職業の恥さらし、それが彼だ」で始まるその痛烈な批判をここに載せたりすれば、ルルーシュがあまりにもかわいそうだ。やめておく。


青山真治レイクサイド マーダーケース』★★

青山真治は追っかけてみているわけではないので、これも劇場公開のときは見逃していた作品。まあ、別に見に行かなくてもよかったか、というのがテレビで見た正直な感想だ。役所広司薬師丸ひろ子柄本明を初めとする、役者陣の演技はすばらしく(鶴見辰吾杉田かおるの「金八」コンビも悪くない)、十分見るに堪える内容とはなっているが、そんなに褒めちぎるような映画ではないだろう。「文學界」に連載中の阿部和重中原昌也の「シネマの記憶喪失」では、「見どころ満載のすごい映画だよ」(阿部)、「とんでもない映画だよね」(中原)と、持ち上げているが、仲間ぼめとしか思えない。「後半、事件の真相が明らかになるモノクロ場面の唐突さには、めちゃくちゃさというか、暴力的なものを感じた」と中原がいい、阿部もそれに同意しているが、こんなのごくごくふつうの手法じゃないの。

話は変わるが、「文學界」の同じ号に、阿部和重蓮實重彦の対談が載っている。ついでにちょっと流し読みをしていたら、大江健三郎の『取り替え子』が話題になっていた。この対談は前に読んでいたのだが、大江の話が出ていたことはすっかり忘れていた。そのなかで、蓮實が、阿部と大江の小説の自己言及性の違いについて触れながら、「大江さんのインターテクスチュアリティやテクストの自己言及性は形式というより想像力の問題であるような気がする」といっている。『取り替え子』を読みながら、どこかに違和感を感じる部分があったのだが、この指摘を読んで、その所在が明らかになったような気がした。

ナボコフを読み終えたら、次は『取り替え子』の続編にあたる『憂い顔の童子』を読むつもりだ。『憂い顔の童子』では、『取り替え子』についてのある批評家の解釈と、それについての古義人の反論がテクストの一部をなし、またしても自己言及的な作品となっているらしい。


アナトール・リトヴァク『さよならをもう一度』#(「#」は見る必要がないという意味です)

一週間ほど前に見たばかりなのに、もう記憶が薄れかけている。


金子修介ゴジラモスラキングギドラ/大怪獣総攻撃』#