>>公開情報<<
『ダーウィンの悪夢』
監督:フーベルト・ザウパー
内容:ダーウィンの箱庭と呼ばれるほど豊かな生態系を誇っていたアフリカのヴィクトリア湖。しかし、外来魚ナイルパーチが放流されたことから状況は一変する。一大魚産業が誕生し経済は繁栄。だが…(正月〜シネマライズ)
山形ドキュメンタリー映画祭で上映され批評家たちから高い評価を得た『ダーウィンの悪夢』が一般公開される模様。関西ではたぶんまだ一度も上映されていないはず。前から見たいと思っていた作品なので、これはうれしい。
ところで、マイケル・マンの『マイアミ・バイス』の評判がやたらいいようだ。
先頃フランスで公開され、「ル・モンド」でも「リベラシオン」でもトップ記事扱いになっている。しかも、意外なことにこれがなかなか評判がいいのだ。「リベラシオン」など、「Super Mann」(これはいうまでもなく、ゴダールがアンソニー・マンを讃えて書いた有名な文章のタイトルだ)という記事のなかで、「この夏最高の作品」と持ち上げている。
見ていない作品の記事はできるだけ読まないようにしているので流し読みしただけだから、どこをどうほめているのかはよくわからないが、とにかく評判はいいようだ。せっかくの夏休みなのだからそれらしい映画でも見に行くか、とちょうど考えていたところだ。『マイアミ・バイス』も悪くないかと思ってみる。しかし、マイケル・マンの映画を見て面白かった試しがないわたしとしては、やはり今ひとつ乗り気がしない。『スーパーマン・リターンズ』という手もあるな、と考えてみたりもする。Super Mann ではなく、Superman というわけだ。こちらの評判はまだ聞いていない。どうなんだろうか。サム・ライミの『スパイダーマン3』があれば一も二もなく見に行くのだが・・・
最近、見たい映画が本当にない。なにかきっかけさえあれば、と思うのだが、そのきっかけもなんだかんだと因縁をつけて、結局見に行くのをやめてしまう。かといって、小津だ、フォードだ、ホークスだ、ルビッチだなどということばかり書いていてもしかたがない。油断していると、結局、むかしはよかったといっているだけになってしまう。実際、「現在」という意識を欠いた言葉はむなしい。
こういう場所で書いていると、結局自分が好きなものを並べているだけだったということはよくある。自分の宝箱を見せびらかすような澁澤龍彦的コレクショニズムもとことんやるならそれはそれですごいかもしれないが、中途半端だと最悪だ。「私はこれが好き」というセリフを延々聞かされても困る。しかし、一方で、最終的にはそれしかないのではないかと思ってみたりもする。ロラン・バルトは『彼自身によるロラン・バルト』のなかで自分が好きなものと嫌いなものをずらりと列挙して見せた。
《私の好きなもの》、サラダ、肉桂、チーズ、ピーマン、アーモンドのパイ・・・L博士の家から見えるアドゥール川の湾曲部、マルクス・ブラザーズ、サマランカから朝の七時に出発するときに食べたセルラーノなど。
《私の好きではないもの》、白いルルー犬、パンタロンをはいた女、ゼラニウム、いちご、クラヴサン、ホアン・ミロ、同義反復・・・政治的=性的なものごと、喧嘩の場面、率先して主導すること、忠実さ、自然発生性、知らない人々と一緒の夜のつき合い、など
しかし、そのすぐあとで、彼はこう書いている。
《私の好きなもの、私の好きではないもの》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。そんなものは、見るからに、無意味である。とはいうものの、そのことすべてが言おうとしている趣意はこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない》。
そして、別の断章で彼はこう書くことも忘れていない。
「ここに書かれている一切は、小説の一登場人物──というより、むしろ登場人物たち──によって語られているものとみなされるべきだ。」
話がそれてしまった。要するに、ブログのような環境は、油断しているとひたすら自堕落な文章を作り出してしまうということがいいたかったのだ。
わたしはこのブログをほとんど日記として書いている。ブログ最大の武器といわれるトラックバックも、実は一度も使ったことがない。その機会がないというのもあるが、性格的なものもあるだろう。こう見えても、わたしは控え目な性格なのだ。しかし、それ以上に、安易なつながりに対する抵抗感があるのかもしれない。「はてな」のように横のつながりがすぐにできてしまう環境では、ちょっと気を許しただけで簡単にシネフィルの共同体ができあがってしまうだろう。それはわたしの望むところではない。といっても、孤独に書き続けることを望んでいるわけでもない。
うまくいえないが、映画を「外」につなげたい。そういう気持ちをずっと抱きつづけていることだけはたしかだ(暗い映画館とは真逆の「明るい部屋」という名前を付けたのにはそういう意味もある)。だから、喜々として映画を見ているだけのシネフィルと話しているとときどき違和感を覚えてしまうのだ。とはいえ、その「外」はあくまで映画のなかを通ってしかたどり着けない。・・・こんな説明でわかってもらえるのか自信はないが、まあそういうことなのだ。
わたしはどこかで映画を憎んでいるのではないだろうか。そう思うこともよくある。まあ、こんな風に映画のことばかり書いているのだから、他の人にはとてもそうは見えないだろうが。
しかし、こうつまらない映画ばかりだと、どんどん映画が嫌いになってゆくような気がする。関西で特集上映をしたきっかけで会って話をしたとき、万田邦敏が、「最近は、映画が好きだとはいわなくなった。好きな映画があるということにしている」とたしかいっていたことを思い出す。その気持ちはよくわかる。
さて、『マイアミ・バイス』、どうしようか?