明るい部屋:映画についての覚書

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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ジャック・リヴェット「映画のエッセンス」(オットー・プレミンジャー『天使の顔』論)

最近「カイエ・デュ・シネマ」の古い記事をわりと真剣に読み込んでいる。しかし、漫然と読んでいてもあまり頭に入ってこないので、適当に訳したりしているうちに、勢いで一つの記事をぜんぶ訳してしまった。

以下に掲載するのは、「カイエ・デュ・シネマ」第32号(1954年2月)にジャック・リヴェットが書いたオットー・プレミンジャー『天使の顔』論、"L'essentiel" のわたしによる試訳である。

「カイエ」によって提唱された「作家主義」という言葉は、理解されているかどうかはともかくとして、今では広く知られている。作家主義が何かということを説明しはじめると簡単にすみそうにないので、その問題はひとまず横に置いておこう。ところで、「カイエ」の映画批評の中心にあったこの「作家主義」あるいは「作家政策」を土台で支えていた重要な概念の一つに、「演出」(mise en scène)という概念がある。この名詞句の元になっている "mettre en scène" という言葉が、直訳すると「舞台にのせる」という意味であることから明らかなように、これはもともと演劇から来た言葉であると考えられる。しかし、この時期の「カイエ」では、この言葉に特殊な意味が持たされていたと言っていい(ちなみに、「監督」を意味するフランス語は "réalisateur", "cinéaste" などいろいろあるが、"mettre en scène" を人称化した "metteur en scène" も広く使われる言葉の一つ)。

リヴェットはこのプレミンジャー論のなかで、「演出」という言葉をさんざん使いながら、「演出とは何か」という問いに自分は答えるつもりはないなどと、ぬけぬけと言い放つのだが、それでも、彼がこの言葉にどういう意味をこめて使っているかを理解するのは、それほど難しいことではないだろう。一言で言うならば、それは、作品のテーマや物語、あるいは作品を取り巻く政治や社会環境といったものでは語れない、映画以外の何ものでもない「秘密」、「謎」とでもいったことになるだろうか。

リヴェットはこれ以外にも、「演出家の時代」(L'age des metteurs en scène)と名付けられた文章を書いたりもしている。これも併せて読めば、彼の考える「演出」とは何なのかがさらにはっきりとするだろう。リヴェット以外では、アレクサンドル・アストリュックが「演出とは何か」(Qu'est-ce que la mise en scène)というそのものずばりのタイトルがつけられた文章を書いている。


一応入念に訳したつもりだが、短期間に仕上げたので、誤訳や訳し忘れた部分が多々あるかもしれない。あまり厳しい目で見ないでいただけるとありがたい。


[原文のイタリック部分は〈 〉を使ってある。]


「映画のエッセンス」
by ジャック・リヴェット



次作『月蒼くして』と同じく、この映画[『天使の顔』]の第一の長所は、この作家について抱いていた先入観のいくつかからわれわれを解放してくれるところだ。プレミンジャー作品における主題の巧妙な曖昧さ、水のようにしなやかで繊細なキャメラの動きをたっぷり味わってしまうと、やがてはそれしか見えなくなって、オットー・プレミンジャーの偉大な才能を、これらの、ちっぽけと言ってしまってもいい、側面だけに限ってしまう恐れがあったのだ。まずはこの2本の映画に感謝しよう。その慎ましさ、貧相な舞台装置、早撮りの撮影によって、この2本は、プレミンジャーが、必要とあれば、良くできたシナリオや、素晴らしい役者、大撮影所のありあまる機材などから最良のものを引き出すだけではなく、それ以上のことができることを証明してくれているからだ。

だから、貧しさを讃えよう 。貧しさの効用がもっぱら、それを隠すための創意工夫を強い、独創を刺激することであるとしてもだ。評価が確立している映画作家たちすべてに、一度は貧しさの試練を与えるべきではないだろうか。豊かさが人を麻痺させるものであることは知られている。この試練にかけられたとき、自信たっぷりの才能からどれだけのものが残っているだろうか。二〇世紀フォックスの設備に比べればアマチュア映画にも等しい予算を与えられて、プレミンジャーは自分の芸術を、本質的なもの、骨格にまでそぎ落とす。これまでは、画面の魅力や、シナリオと演出(la mise en scène)の秘められた構造に隠れて、その本質的なもの、骨格は目立たなかったのだった。映画の原理(élements)は、ここではほとんど剥き出しの状態で働いている。セルズニックやMGMの製作作品の仰々しい作り方とは対照的に、『天使の顔』と『月蒼くして』は、プレミンジャーにとって、ドライエルの『ふたり』、ラングの『復讐は俺に任せろ』、ルノワールの『浜辺の女』にあたる作品だ。才能の、すなわち天才の、演出家であることのこの上なく決定的な証拠。もっとも、わたしはこの2本がプレミンジャーの最高傑作だと言っているのではない。この2本のおかげで、彼の他作品とその才能の秘密によりいっそう近づくことができるのであり、すでにうすうす感じていたこと、すなわち、その才能というのは、映画についてのある明確な〈理念〉(idée)*1と相関関係にあるのだということを確信できる、と言っているのだ。

しかし、この理念(idée)とはいったい何なのか。隠しても仕方がないだろう。わたしはまだ、自分がプレミンジャーのことをどう思っているのかよく分からないのだ。一言で言うなら、彼の映画はわたしを興奮させるというよりも、わたしを当惑させるということだ。しかし、わたしはこれを最小の賛辞ではなく、最初の賛辞にしたい。実際、人を当惑させることのできる映画作家の数など、それほど多くはないのだ。

ここで、作品の主題や人物たちについて、目新しくもないことを語るのが適当なのだろう。たとえばジーン・シモンズ演じる人物について、プレミンジャーの他のヒロインたちとの類似や相違を述べたりするのがふさわしいのだろう。それは分かっているのだが、悪魔がこうささやくのだ。「そんなことをする必要があるのか? 偽りの、犯罪的な純粋さなどといったものはまさしく、お約束の、ただの技巧の産物ではないのか?」

この平凡なヒロイン──そう、平凡なのだ──は、同時に、新鮮で驚異的でもある。これが、シナリオとは関係ない何かの秘密(mystère)によってもたらされるのでないとしたら、いったいどうしてそんなことが可能だろうか。

ただし、この秘密のしばしばいかがわしくもある見かけの魔力を、あまり大げさに考えないようにしよう。もっとも、この実に秘密めいた映画は、自分が秘密めいていることを隠そうともしていない。急いで指摘しておかなければならないが、実際、非常にわかりやすいこの第一の謎は、近寄りがたいもう一つの謎によって裏打ちされているのだ。アクションの半分が説明されないままなのは、物語の論理によるアクションの説明が、アクションによって生まれるエモーションと相容れないからだといったほうがいい。筋以外の興味が、われわれを絶えず人物たちの仕草へと引きつけるのだが、人物たちについて考えると、彼らに真の深さがまったく欠けていることも分かる。しかしながら、彼らが求めているのはこの深さなのだ。ただしそれは人為的な深さだ。というのも、その深さは、人間の、疑わしく、また議論の余地のある繊細さによってではなく、まさに芸術によって、映画が映画作家に与える可能性のすべてを活用することによって、もたらされるものであるからだ。

映画監督が、次の作品を撮り、俳優を演技指導し、新たに何かを作り出すための口実としてシナリオを選んだとしても、わたしは決して腹を立てたりはしないだろう。今わたしは、シナリオを口実に、と言っただろうか。プレミンジャーがまさにそのような見本だとは思わないが、彼はシナリオに、何人かの人物たちを目の前に立たせて、じっくりと研究し、互いを前にした反応を窺い、彼らからある仕草、ある態度、ある反射的動作を引き出すための機会を見ているのであり、これこそが彼の映画の〈存在理由〉であり、その真の主題なのだ。

プレミンジャーがテーマ(motif)に関心がないということではない。むしろ、そのことで彼を大いに賞賛したいくらいだ。プレミンジャーは何でも撮れるタイプの監督ではない。彼の映画の成功した部分と、落ち着き払って不器用に撮られた部分を並べてみれば、彼が何に関心を持っているかを容易に見て取ることができる。各挿話の差異を比較研究するよりも、むしろ不変の特徴を研究する方が、プレミンジャー作品を解釈する手立てになりそうだ。そうした不変の要素は、物語の構成要素というよりも、どんなテーマが自分に合っているかを知っている作家のオブセッションであると言った方がいいだろう*2

プレミンジャーはこの物語をどれほど信じているのかと問うこともできる。彼はこの物語を信じているのか。われわれにこの物語を信じさせようとさえしているのか。たしかに、物語の信じがたさに彼はうんざりしたりしない。それどころか、物語の信じがたさがあらわになる瞬間──ローラが蘇り、コルヴォ博士が鏡を見て自己催眠にかかる瞬間──こそ、しばしば、物語をもっとも信じうる瞬間であるのだ。だが、『ローラ殺人事件』『疑惑の渦巻』のようなフォルムの魔力を禁じられているこの作品[『天使の顔』]において、真の問題は、信じがたい物語を信じさせることではなく、ドラマ上あるいは物語上の本当らしさを超えて、純粋に映画的な真実を見いだすことにある。プレミンジャーとは別の映画理念のほうがわたしの好みには合っているのだが、プレミンジャーがやろうとしていることも理解してほしいと思う。その試みはとても巧妙で、注目に値するものだ。つまりわたしは、ホークス、ヒッチコック、ラングといった古い流派の、たぶんもっと素朴な考え方の方が好きなのだ。彼らは、まず最初に主題を信じ、その信念を自分たちの芸術の基盤にしている。一方、プレミンジャーがまず最初に信じるのは演出──つまりは、人物と装置の的確な複合体を、関係の網の目を、空間のなかを揺れ動き、宙づりになっている、諸関係よりなる建築を作り出すことなのだ。彼が試みているのが、水晶を、曖昧に反射し、鋭利な稜線を持つ透明体にカットすること、あるいは、それまで耳にしたことのない珍しい和音を聞かせることでないとしたら、いったい何だろう。転調の説明しがたい美が、突然、楽節全体を正当化するのだ。今言ったことはおそらく、ある種のプレシオジテ(気取った文体)に当てはまる定義だが、同時に、それがもっとも高度で密やかな形となって現れたものでもある。というのも、それは、技巧を駆使することからではなく、その時まで耳にしたことのなかった調べ(note)を、飽くことなく、危険を冒しながら探し求めることから生まれるものだからだ。われわれは、その調べに飽きることはないし、その音を掘り下げながら、その謎を組み尽くしたなどと嘯いたりすることもない。その謎は知性の彼方へと開き、未知なるものへと通じているのだ。

これが演出の持つ可能性であり、プレミンジャーがわれわれに提示してくれているように思える、自己の芸術を実践することのみを信じることの見本なのだ。その信念によって、彼は、自分の芸術のもっとも深い部分を、別の形で見いだすことができるのだ。こんなことを言うのは、審美家の抽象的な実験のようなものを思い描いてほしくないからだ。「何よりも仕事が好きだ」とプレミンジャーはわたしに語った。そう、プレミンジャーにとって、1本の映画は、それに取り組み、あれこれと自問し、様々な困難にぶつかってそれを解決するための機会なのだ。作品は目的であるというよりも、どこかに向かうための一つの手段(chemin)だ。作品の不測の部分がプレミンジャーを引きつける。偶然の事態による思いつきが、幸運な瞬間に生まれ、人物と場所のつかの間のエッセンスへと向かうその場の即興が、彼を引きつける。プレミンジャーを一言で定義しなければならないとすれば、演出家(metteur en scène)という言葉こそまさにそれだ。もっとも、舞台での経験は、彼の映画にほとんど影響を与えてはいない。人と人が対峙することから生まれる劇的空間のただ中で、プレミンジャーはむしろ、まなざしの近さと鋭さによって、偶然(といっても、それは意図された偶然だ)を捉え、偶発的事態(といても、それは作り出された偶発的事態だ)をフィルムに刻み込むという、映画のもつ能力を極限まで活用する。[演劇的な]人物たちの関係によって生み出される閉ざされた交換の回路の中には、観客を引きつけるものは何もないのだ。

演出とはいったい何なのか。準備も前置きもなく、このように厄介な問題をふいに問いかけることを許してほしい。しかも、わたしはその問いに答えるつもりなどないのだ。ただ、映画を語るとき、いつもこの問いを頭の中で問いかけるべきではないだろうか。それよりも一つ例を挙げよう。『天使の顔』のヒロインが夜、過去の名残の中を歩き回る場面だ。この場面は、『ローラ殺人事件』でダナ・アンドリュースがローラの遺品のあいだを歩き回る場面とも似ていて、脚本の上では、陳腐なものに惹かれてできあがった見本のようなものでしかない。しかし、プレミンジャーはこのようなアイデアを思いつくだけでなく、ジーン・シモンズにジグザグの歩き方をさせ、肘掛け椅子の上で縮こまらせる。間抜けで安っぽいものになりかねないアイデアが、全くの愛想のなさ、時間の流れの過酷さ、まなざしの明晰さによって救われている。というよりもむしろ、テーマも、台本も、達者な手腕も、思いがけない思いつきももはやなく、そこにあるのは、悲痛なほど明々白々な映画の剥き出しの存在なのであり、それが心に触れるのだ。

かくして『月蒼くして』は、役者の巧みな演技指導による、エスプリに富んだ見事なコメディの実践というよりも、仕草と言葉の抑揚を即興で絶えず生み出し、人物たちの完全な自由を鮮明に際だたせることによる、どんな寓話よりも感動的な、ある力の明白な肯定なのだ。映画作品が、自己の実現だけをめざす演出の表れであったことがあるとすれば、これはまさしくそのような作品だ。男優と女優の、主人公と舞台装置の、言葉と顔の、手と事物の〈戯れ〉(jeu)でないとすれば、映画とはいったい何だろうか。

この2本の映画の飾りのなさ(nudité)は、本質的なものを損なうどころか、挑発的なまでにそれをあらわにする。外見と〈自然さ〉(naturel)に対する好み、偶然を巧みに捉まえること、偶然の仕草を探求すること、こうした、もしかしたら本質的なものを危険にさらしかねないことすべてが、実は、映画の、あるいは人間の秘密の部分をそこに見いだすのであり、それが、これらが空虚なものに陥ることから救ってくれるのだ。これ以上のことはもう望みようがない。



*1:"idée du cinéma"(「映画の理念」) という表現は、たとえば「演出家の時代」という文章のなかでも微妙にニュアンスを変えて使われている。シネマスコープの登場をめぐって書かれたこの文章のなかで、リヴェットは、「シネマスコープには少なくとも一つメリットがある。それによって、映画の2つの流派の、さらにいうならば、映画の2つの理念の、映画を愛し、理解する際の2つの根本的に相容れない仕方のあいだに、明確な境界線がついに引かれるというメリットだ」と書いている。この2つの理念の背後には、バザンの唱える「モンタージュの映画」と「現実の映画」の対立があると考えても間違いではないだろう。リヴェットが信じているのは、むろん後者の映画であり、シネマスコープはそれが正しいことを証明している、というのがここでのリヴェットの言い分である。

*2:たとえば、幻惑(『ローラ殺人事件』『疑惑の渦巻』『天使の顔』)、尋問(『ローラ殺人事件』『堕ちた天使』『疑惑の渦巻』『歩道の終わるとき』『天使の顔』)、恋のライヴァル(『ローラ殺人事件』『堕ちた天使』『悲しみの恋』『天使の顔』『月蒼くして』)。(原注)