明るい部屋:映画についての覚書

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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ジル・ドゥルーズ『シネマ』覚書(3)


第1章第3節の要約


>>[第3のテーゼ:運動と変化]<<

瞬間が運動の動かない切片であるというだけでなく、運動自体が持続の動く切片である、つまりは全体(le Tout)あるいはひとつの全体(un tout)の動く切片であるのである。このことは、運動はさらに深いなにものかをあらわしており、そのなにものかは持続あるいは全体における変化である。持続が変化であることは、持続の定義の一部でさえある。持続は変化し、変化し続ける。


これがベルクソンの運動に関する第3のテーゼである。要するに、運動は全体の質的変化とつねに結びついているということ。ドゥルーズがわかりやすい例を挙げているので引用する。

運動というのは、空間における移動である。ところで、空間における部分の移動があるたびに、全体の質的変化もまた生まれる。ベルクソンは『物質と記憶』においてその例をいくつも挙げている。動物が移動するのは無意味にそうするのでなく、食べるためであったり、移り住むためだったりする。運動はポテンシャルの差(電位差)を前提とし、その差を埋めようとするらしい。部分あるいは場所を抽象的にAあるいはBとしてみても、この二つのあいだに生じる運動を理解できない。だが、わたしはA地点にいて腹を空かせており、B地点には食べ物があるとする。わたしがB地点に到着してそれを食べるとき、変化したものはわたしの状態だけでなく、B、A、そしてそのあいだにあるものすべてを含めた全体の状態である。アキレスが亀を追い越すとき変化するのは、亀、アキレス、およびその二つのあいだの距離をふくむ全体の状態である。運動はつねに変化と結びつき、移住は季節の変化と結びつく。これは物体についても当てはまる。物体の落下は、その物体を引きつけるもうひとつの物体を前提しており、その二つの物体をふくむ全体における変化をあらわしている。純然たる原子を思い浮かべるなら、物質のあらゆる部分の相互的行動をしめしている原子の運動は、必然的に全体におけるエネルギーの変動、擾乱、変化をあらわしている。ベルクソンが移動の彼方に見出したものは、振動、放射である。われわれの過ちは、動くものが質とは関わりを持たない任意の要素であると信じていることだ。だが、質自体が、そのような要素が動くと同時に変化する振動そのものなのである。

>>[全体、開かれたもの、あるいは持続]<<

それからあの有名な砂糖水の話が出たあとで、ドゥルーズベルクソンを引用しながらこうつづける。

「物理と科学が研究する塊と分子のまったく表層的な移動」が、「深いところで生まれるこの生きた運動、移動というよりも変質であるこの生きた運動に対してもっている関係は、動体の停止点が、空間におけるこの動体の運動に対してもつ関係と同じもの」である。ゆえにベルクソンは、第三のテーゼにおいて、次のような相似関係を提示する。

 動かない切片     動く切片としての運動
──────── = ─────────────
   運動         質的な変化

ただし、左の関係は錯覚を、右の関係は現実をあらわしているという違いがある。
 コップ一杯の砂糖水でベルクソンがいわんとしていることは、どのようなものであれわたしが砂糖の溶けるのを待っている状態は、心の(メンタルな)現実、精神的(スピリチュアルな)現実としての持続をあらわしているということである。だがどうして、この精神的持続は待っているわたしだけでなく、変化する全体をも示しているのだろうか。
 ベルクソンはこういっていた。全体は与えられたものではないし、また与えられるものでもない、と(古代科学と近代科学の誤りは、やり方はそれぞれ異なるが、全体をみずからに与えたことである)。全体は与えられたもの(donné)ではないし、与えうるもの(donnable)でもないと、多くの哲学者がベルクソン以前にすでにいっていた。彼らがそこから引き出したのは、全体というのは意味のない概念であるという結論にすぎなかった。ベルクソンの結論はこれとは大いに異なっている。全体が与えられないとすれば、それは全体が《開かれたもの》(l'Ouvert)であり、全体というのは絶えず変化する、あるいは絶えず新しいなにかを出現させる、つまりは持続するものだからである。「宇宙の持続は、そこに存在するであろう創造の自由と同じひとつのものであるはずだ」。したがって、ある持続の前にいるとき、あるいはある持続のなかにいるとき、人はある変化する全体、どこかへと開かれた全体の存在を結論することができるであろう。ベルクソンがはじめ持続を意識と同じものとして発見したことはよく知られている。だが、意識についてのさらなる研究によってベルクソンが示すことになるのは、意識が存在するのは、それがある全体へと開かれ、ある全体が開かれるのと同時であるということだ。生命体についても同じことがいえる。ベルクソンが生命体をある全体と、あるいは宇宙の全体と比較するとき、彼は大昔からおこなわれている比較をふたたび取りあげているように見える。けれども彼はその各項を完全に逆さまにしてしまっているのだ。というのも、生命体がひとつの全体であり、したがって宇宙の全体と比べられるとするならば、それは、宇宙の全体が閉じられているのと同じく、生命体も閉じられたミクロコスモスであるからではなく、その逆に、生命体は世界へと開かれており、世界や宇宙そのものが《開かれたもの》であるからである。「なにかが生きている場所では必ず、どこかが開かれていて、時間がふくまれる領域が存在する*1。」


ここで、真の運動と分かちがたいものとして全体(le tout)という概念が出てくるのだが、ここで注意しなければならないのは、全体と似て非なるものとして扱われる総体(ensemble)という概念だ。ensemble は数学的には「集合」を意味する言葉であり、「集合」をイメージした方が理解しやすい部分も多いのだが、この本のなかでは「全体」と深く関わりつつもそれとは別物として比較対照されているので、「総体」と訳しておく。

あらかじめ簡単に整理しておくと;

  • 総体(ensemble):閉じたシステム。
  • 運動:一方では、総体における諸部分の相対的な位置の変化。他方では、全体の質的な変化、すなわち持続の動く切片。
  • 全体(tout):開かれたもの。持続。

という図式ができあがる。総体と全体は峻別されるべきであるが、この二つはまた互いを必要しあってもいる。
そして、第2章では、この総体、運動、全体が、それぞれ映画におけるフレーム、ショット、モンタージュと結びつけて論じ直されることになるだろう。

 全体とはなにかを定義しなければならないとすれば、それは《関係》(la Relation)によって定義されることになろう。関係というのはもろもろの事物の特性ではなく、関係する項のつねに外部に存在するものだからである。したがって関係は《開かれたもの》と切り離しがたく、スピリチュアルなあるいはメンタルな存在を提示するものである。もろもろの関係は事物ではなく、全体に属する。ただしその場合、全体(le tout)を、もろもろの事物の閉じた総体(l'ensemble)と混同してはならない*2 。空間における運動によって、ある総体のなかのもろもろの事物はそれぞれの位置を変える。だが、もろもろの関係を通じて、全体は変化するのであり、質を変えるのである。持続そのものあるいは時間については、それはもろもろの関係の全体であるということができる。
 全体、もろもろの《全体》を総体(=集合)と混同すべきではない。総体は閉じられており、閉じられているものというのはすべて人工的に閉じられているのである。総体はつねに部分の集合である。だが全体は閉じたものではなく、開いている。全体は部分をもたない、もつとしても非常に特殊な意味においてである。全体というのは分割されるたびに必ず性質を変えてしまうからである。「本物の全体は分割不可能な連続体であるだろう」。全体は閉じた総体ではない。逆に、全体とは、総体を完全に閉じたものには決してせず、 [外部から]完璧に守られたものにもせず、一本の細い糸によって宇宙の残りの部分とつなぐようにして、総体をどこかで開かれた状態にしておくものなのである。水の入ったコップはたしかに水、砂糖、そしておそらくスプーンといった部分を閉じこめている閉じた総体であるが、それは全体ではないのである。全体は、部分をもたない別の次元において、作り出され、そして絶えず作り出されつづける。いわば、総体をある質的状態から別の質的状態にいたらせるもの、それらの状態を通過する休むことない純粋な生成のごときものである。全体というものがスピリチュアルまたはメンタルであるのはこの意味においてである。「コップ一杯の水、砂糖、そして砂糖が水の中に溶ける過程はおそらく抽象である。そして、そのなかでそれらがわたしの感覚と悟性によって分割されている《全体》は、おそらく意識のようにして進行する。」[・・・]総体は空間のなかにあり、一方、全体、もろもろの全体は、持続のなかにあるのであり、持続が絶えず変化し続けるものであるかぎりにおいて持続そのものなのである。したがって、ベルクソンの第1のテーゼに対応する二つの公式はいまやいっそう厳密に規定される。すなわち、「動かない切片+抽象的時間」は閉じた総体とかかわっていて、この総体のもろもろの部分は動かない切片であり、その連続するもろもろの状態は抽象的な時間にもとづいて計算される。一方、「現実の運動→具体的持続」は、持続する全体の開かれた状態とかかわっており、この全体のもろもろの運動はそれぞれみな、もろもろの閉じたシステムを横断する動く切片である。

>>[3つのレヴェル:総体と諸部分;運動;全体とその変化]<<

 この第3のテーゼの結果、3つのレヴェルが現れる。1)区別可能な諸事物または分別可能な諸部分によって定義される、閉じた総体またはシステム。2)それらの事物のあいだに確立され、その相対的な位置を変化させる、移動の運動。3)それ自身の諸関係にしたがって絶えず変化し続けるスピリチュアルな現実としての、持続あるいは全体。
 したがって運動にはある意味で二つの側面がある。一方で、運動とはもろもろの事物または部分のあいだで生起するものであり、他方で、運動とは持続または全体をあらわすものである。運動によって、持続は質を変化させながらもろもろの事物へと分割され、事物は深まりながら、その輪郭を失っていきながら、持続のなかへと統合されてゆく。したがって、運動はある閉じたシステムのもろもろの事物を開かれた持続に結びつけ、持続を、持続によって開かれた状態にさせられるそのシステムのもろもろの事物へと結びつけるものであるようだ。運動はもろもろの事物のあいだに確立されるのだが、運動はそれらの事物を、それがあらわしている変化する全体へと関係させるのであり、またその逆もしかりである。運動によって、全体はもろもろの事物へと分割され、もろもろの事物は全体へと統合される。そして、この二つの[運動の]あいだで、「すべて」は変化するのである。ある総体のもろもろの事物あるいは部分を動かない切片とみなすことができるが、これらの切片のあいだで運動が確立されると、この運動はもろもろの事物や部分をある変化する全体の持続へとかかわらせる。したがって運動は、もろもろの事物との関係において、全体の変化をあらわし、この運動自身が持続の動く切片なのである。こうしてわれわれには、『物質と記憶』の第1章の非常に深遠なテーゼを理解することができるようになる。1)たんに瞬間的イマージュ、すなわち運動の動かない切片があるだけではない[『創造的進化』においてベルクソンが批判する映画はこうしたものと考えられていた]。2)持続の動く切片であるような運動イマージュがあるのである。3)最後に、運動を超えたところに、時間イマージュが、すなわち持続イマージュ、変化イマージュ、関係イマージュ、ヴォリューム・イマージュがあるのである。


「全体」の問題は、このあともしつこく繰り返される。とりわけ、時間との関わりで論じられるときさらなる深まりを見せるだろう。もっとも、ここでふれられる「ヴォリューム・イマージュ」などは、わたしの記憶間違いでなければ、第2巻でも直接触れられることはないはずである。

(第1章終わり。)

*1:『創造的進化』508(16)頁。ベルクソンハイデッガーの唯一の、しかし無視できない類似点は、どちらも時間の特殊性を「開かれたもの」の概念に基づけていることである。

*2:ベルクソンがはっきりとは提起していない問題であるが、われわれはここで関係の問題を提起する。ふたつの事物のあいだの関係は、そのどちらかの属性に還元することはできないし、ましてその総体の属性に還元することはできない。そのかわり、もろもろの関係をある全体と結びつける可能性は、この全体を与えられた総体ではなくひとつの「連続体」とみなすならば、そのまま残る。