明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。





























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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

『宇宙を夢見て』『ベッドとソファ』『未来への迷宮』


ナナゲイに『チーズとうじ虫』を見に行く。モーニングショーなんて何年ぶりだろう。めずらしく早起きをしていったのだが、案の定、半分ぐらい爆睡してしまった。ナナゲイはいつも顔パスで入れてもらっているので、ただで見ているという気のゆるみもあったのかもしれない。というわけで、この作品の評価は、また見直す機会があったときにすることにしよう。支配人の松村氏にもひさしぶりに会った。会うのはずいぶんひさしぶりなのだが、前歯があいかわらず欠けたままになっていることをとりあえず確認してから、シネ・ヌーヴォの「ロシア・ソビエト映画祭」に向かう。

この日は、アブラム・ロームの『ベッドとソファ』『未来への迷宮』、プドフキンの『母』、ロシア映画の新作アレクセイ・ウチーチェリの『宇宙を夢見て』を見た。一日に、こんなにたくさん映画を見るのも何年ぶりだろうか。まあ、たまにはいい。

ロームの2作は前にすでに見ている。サイレント映画の『ベッドとソファ』は例によって上下がかなり切れているビスタ・サイズでの上映。やはりフィルムの問題なのか。ちなみに、『未来への迷宮』『母』はちゃんとしたスタンダードでの上映だった。


アレクセイ・ウチーチェリ『宇宙を夢見て』★★★

正直いって、ついでに見ただけの映画だったのだが、これは拾いものだった。靄に煙る港町、寒々とした海、電線にバチバチと火花を散らしながら走る夜の市街電車、雑木林のなかを通り抜けてゆく自転車。ロシア映画ってこれだよなっていう、むかしレンフィル映画祭に通って、毎日のように新しい映画作家を発見していたときのことを少しばかり思い出した。むろん、ソクーロフやゲルマンやカネフスキーといった化け物のような作家たちと比べられるような才能の持ち主ではないと思うが、いかにもドキュメンタリー出身の監督らしい、みずみずしいタッチはなかなかのものだ。粒子の粗いざらついた画面が独特の効果を上げている。わたしはやっぱりこうしたフィルムの手触りが好きなのだ、結局。『チーズとうじ虫』のようなビデオ撮り作品は、心の底では、受け入れることができないのかもしれない(もちろん、キアロスタミの『10』など、いくつかの例外はあるが)。


これはタイトルから想像されそうなSF映画でも、『ライトスタッフ』ふうの宇宙飛行士ものでもなんでもない。一言でいうなら、青春映画ということになるだろう。ソ連が人類初の人工衛星スプートニクの打ち上げに成功し、宇宙が夢見られていたころ、田舎の港町のレストランで働くひとりの青年が、ボクシングジムで謎めいたひとりの青年に出会うところから映画ははじまる。スターリンはとっくに死んでいるとはいえ、管理主義的体制は依然としてつづいている。舞台となる田舎町では、主人公たちはラジオを珍しがり、世界地図さえ見たことがない。女は首筋にキスされただけで驚く。主人公の青年は、謎めいた青年と知り合ったことで未知の世界を知ることになるのだが、その未知の世界へのあこがれは具体的な形を取ることができない。外の世界をほとんど知らない彼の夢は、やがて宇宙へと向かってゆくことになるだろう。

たしかにSF映画ではないが、物寂しい街の光景や、全編に鳴り響いている不気味な通奏低音が、近未来SFの世界を連想させる。こういうのを見ていると、タルコフスキー作品をはじめとして、ロシアにはSF映画の隠れた名作が多いことも納得される。

なかなかいい感じで進んでいくのだが、終わり方がわたしには不満だった。ラストのところで主人公の青年が列車のなかで知り合った飛行士が、別れ際にユーリーという自分の名前を告げるのを見れば、よほど勘が鈍い人ならともかく、ふつうの人はユーリー・ガガーリンのことではないかと思うはずだ(いや、高校でまともの世界史が教えられていないいまは、ガガーリンの名前を知っている人間のほうが少ないのか)。しかし、映画は、人類初の宇宙飛行に成功したガガーリンの凱旋パレードのドキュメント映像を長々と映し出し、そこに主人公の青年の映像を『フォレスト・ガンプ』ふうにモンタージュしてみせる。どこか不安げな雰囲気のなかで、ほろ苦い青春を描いてきた映画が、ここに来て突然、こんな脳天気な終わり方をするのには少しがっかりした。

とはいえ、見て損はない映画だとはいっておく。

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『ベッドとソファ』『未来への迷宮』についても備忘録ふうに簡単にメモっておく。

『ベッドとソファ』(27)は、1920年代のいわゆるネップ(新経済政策)時代のソ連を描いた作品だ。映画は、主人公のウラジーミル・フォーゲル(『トルブナヤ通りの家』で意地悪な主人を演じている)が列車でモスクワに上京する場面ではじまる。平野を走る線路をとらえた美しいオープニング・ショットにつづき、走る列車から撮られた線路や風景がモンタージュされ、やがて都会が見えてくる。「街は眠っている」「人も眠っている」などという字幕とともに、寝静まった街の光景、眠っている猫、ベッドにならんで寝ているニコライ・バターロフとリュドミーラ・セミョーノワのショットなどがモンタージュされてゆく。ついで、「街は目覚める」という字幕とともに、朝になって活気を帯びはじめた街の様子が短いショットの連続で描かれる。光が差しはじめた街路、ゴミを掃除する清掃夫(舗道をホースで掃き清める水しぶきが、バターロフらの住むアパルトメントの窓の隙間から見える)、ガス灯の明かりを消して歩く街頭係。バルネットの『トルブナヤ通りの家』のオープニングとよく似ているが、バルネットの大胆さとは対照的に、細かく丁寧なモンタージュがなされている。

やがて、ニコライ・バターロフとリュドミーラ・セミョーノワ夫婦も目覚めるのだが、ほんの数カットで、妻リュドミーラが夫婦生活に感じている倦怠感と、それにまったく気づいていない夫ニコライの鈍感さが伝わってくる。

建築現場の屋上に鎮座する馬車馬をかたどった彫像越しに俯瞰されたモスクワの街。この都会にやってきたウラジミール・フォーゲルが旧友バターロフと偶然再会し、彼のアパートに転がり込んだことから、ニコライ、リュドミーラ、ウラジミールの三角関係がはじまる。居候としてはじめはソファに寝ていたウラジミールは、ニコライが出張で留守のあいだに彼の妻のリュドミーラと関係をもつ。それを知ったニコライはアパートを出て行き、ウラジミールはリュドミーラとベッドで寝起きするようになる。土砂降りの雨の日に荷物を取りに帰ってきたことをきっかけに、ニコライはふたたびもとのアパートで暮らしはじめる。ただし、寝る場所はベッドではなくソファの上だ。ニコライとウラジミールは毎日ゲームをして暮らすが、リュドミーラをめぐってしだいに重苦しい雰囲気が漂ってくる。やがて、ニコライがふたたびリュドミーラとベッドをともにするようになり、ウラジミールはまたもとのソファでの生活に戻る。しかし、リュドミーラが妊娠し、ふたりの男たちがともに責任を回避して彼女に堕胎を迫ったことから、彼女はアパートマンを出てひとりで生きていくことを決意する。

衝立にかけられた衣類が、だれかがリュドミーラとベッドをともにしていることを物語る。ルビッチの作品を思わせるアモラルな雰囲気が漂う映画だ。脚本は詩人のヴィクトル・シクロフスキー。あのロシア・フォルマリズムで有名なシクロフスキーである。


『未来への迷宮』は、社会主義における「平等」の問題という、部外者にはわかりにくいテーマを描いた奇妙な作品なのだが、全編にどこか戦前の松竹映画を思わせるような雰囲気が漂っているのが不思議だ。冒頭、裸同然の格好で女が海で泳いでいるのをとらえたロングショットで映画ははじまる。豪邸の広い庭におかれたテーブルに座っている男がその様子をちらちらと見ている。やがて海から上がってきた女が、男の横を軽蔑の眼差しで通り過ぎ、階段を上がって屋敷に入ってゆく。男は、この邸宅の主人である高名な外科医ユリアン・ステパノフの「友人」であり、いまはこの屋敷に居候として住んでいる。この男が、いわばシェイクスピア劇の道化にも似た、おべっか使いであると同時に、ときに耳の痛い真実を口にする人物として物語にアクセントを沿えている。

ここでもストーリーの焦点は、ヒロイン(オリガ・ジズネワ)と、その夫(ユーリー・ユリエフ)、地元の青年(ドミトリー・ドルリアク)との三角関係になってくる。アパートの一室の室内描写だけでほぼ全編が展開する『ソファとベッド』とは対照的に、『未来への迷宮』ではさまざまな空間描写が見られる(挨拶にやってきた青年ドミトリーを妻がおくってゆき、門の前に駐めた車の前で楽しそうに話すのを、階段の上からユーリーが双眼鏡で眺めるところとか)。そもそも、舞台となる邸宅は、前に海が広がり、列車の音が聞こえるほど近くに線路が走っていることはわかるのだが、その門の外になにが広がっているのかはまったく見えてこず、ほかの世界と切り離されてぽつんとそこにおかれているように思える。これが、途中で出てくる夢のようなパーティの場面へとつながっていくのだろう。はじめのほうで、ドミトリーが最寄りの駅から出てくるショットがあるが、駅の中から外に向けて撮られたワン・カットだけの表現で、列車も写らないし、どんな駅なのかさえよくわからない。

一方、長いらせん階段を上りきったところにあるドミトリーのアパートは、窓から街の光景が見え、現実世界のなかにしっかりと位置しているように思える(ユーリーがその階段を上ってドミトリーにわびを入れに来るのが、ふたりの和解のきっかけとなる)。近未来SFに出てきそうな広い手術室の場面も印象的だ。

ユーリーは最初、ドミトリーをパーティに招待するが、妻が彼と仲良くしているのを見て、気が変わり、居候のフョードルに断りに行かせる。フョードルの無礼な態度に、ドミトリーの友人たちは激怒する。その後に、夢とも現実ともつかないパーティの場面が続く。タキシードに身を包んだドミトリーの友人の円盤投げ選手ニコライが、現実離れした巨大な花が生い茂り、柳のたれる庭園に現れる。フョードルたちがそれに気づいて追い出そうとするが、ニコライは得意の円盤投げでパイを投げてフョードルをパイまみれにする。彼はそこを通ってパーティの会場へと向かう。そこではピアノの演奏がおこなわれ、正装した賓客たちが耳を傾けている。手前の戸口に現れたニコライの姿にきづいたオリガがこちらに来ようとすると、ユーリーが「邪魔をしないでくれ」と大声で何度も叫ぶ。そこに突然、舞台奧の長い階段を下りてドミトリーが乱入してくる。突然ふたりだけになると、舞台の仕掛けが動いてふたりの周りから噴水が吹き上がる。この場面全体が紗のかかったようなソフト・タッチで描かれていて、まるでRKOのミュージカルのようである。気がつくと、ドミトリーはどこかの木にもたれて雨にずぶ濡れになった状態になっているのだった。すべては夢だった、ということのようだ。

共産青年同盟のリーダーの手術をきっかけに、ユーリーは新しい世代の若者たちを見直し、ドミトリーをあらためてパーティに紹介する。しかし、彼が姿を見せないので、オリガはドミトリーに会いに彼のアパートに行く。ふたりはアパートを出て、前の通りを散歩する。ピアノを弾いていた作曲家がベランダに出てきて、ふたりにうるさいといいつつ、愛を語る。ふたりは街を見下ろす散歩道に出て、曲がりくねった手すりにもたれかかってキスをする。女がもとの屋敷戻ってきたのを、夫が迎えるところで映画は終わっている。