5月26日(土)、神戸映画資料館にて、下記の講座を行います。
連続講座「20世紀傑映画再(発)見」第4回
『カメラを持った男』──機械の眼が見た〈真実〉
http://kobe-eiga.net/program/2018/05/3913/
[『カメラを持った男』は字幕のない映画として知られていますが、実は、画面のなかに現れる看板などの文字が非常に重要で、それが読めないと意味がわからないシーンがたくさんあります。なので、今回はそうした文字の多くに日本語字幕を付けて上映します。しかし、それでもまだ意味の分からないシーンも多くあります。講座のなかでは、当時の背景を説明しながら、そういうシーンを「読んで」いく予定です。]
このカッとしやすいロシア人ジガ・ヴェルトフの視覚に追いつくのに、われわれはその後40年かかった。
(ジョナス・メカス)
最近、ジガ・ヴェルトフの古いキノ・プラウダのニュース映画(1919-22)を2、3本見た。それから彼の『カメラを持った男』を――やっぱり素晴らしかった。あの率直さ、簡潔さ。映画は、人に好かれようとして媚びるべきではない。
(ジョナス・メカス)
機械的なノイズを集めることによってこれほどの美を作り出すことができるとは夢にも思わなかった。わたしの知るかぎり最も見事なシンフォニーのひとつ。ジガ・ヴェルトフはミュージシャンだ。*1
カメラが人間の間で自分の役割を研ぎすませてゆくには、第一次世界大戦の騒乱、諸価値の根底からの問い直し、ロシア革命、そしてヨーロッパの知的革命が必要だった。
この時、2人の天才によって[ドキュメンタリーという]われわれの分野が発明された。ひとりは、ロバート・フラハティで、かれは地理学者=探検家として、それと知らずに民俗学を実践していた。もうひとりは、ジガ・ヴェルトフで、かれは未来派の詩人として、やはりそれと知らずに社会学を実践していた。ふたりは一度も出会うことがなかったが、どちらも映画に「現実」を渇望していた。そしてこの2人の驚くべき観察者のあいだで自分たちの新たな分野を発明しようとしていた民俗学者たちや社会学者たちも、この2人とはまったく接点がなかった。それでも、われわれが今日やろうとしていることのすべては、この2人のおかげなのである。
(ジャン・ルーシュ)
いかにして始めるか?
ジガ・ヴェルトフにとって、一日は
カメラを持った男の出現とともに
始まる。
イメージの生産とともに。
われわれにとって、一日は
再生産とともに始まる。
分析してみた結果、エイゼンシュテインは修正主義の映画作家だったのに対し、ヴェルトフの方はボリシェヴィキ映画の初期においてすでに、「プロレタリア独裁の名のもとに目を見開き、世界を提示する」という2点だけからなる、まったく別の理論を持っていたことがわかったのです。ジガ・ヴェルトフは今日では、間違って、シネマ・ヴェリテという概念のもとにルポルタージュや隠し撮りと同一視されていますが、当時の「キノ・プラウダ」という言葉は、それらとはまったく関係がなく、政治映画を意味する言葉だったのです。
この映画は一度だけ見られるために作られていない。この映画がどのように機能しているかを、一度見ただけですべて消化しきることなど、誰であろうと不可能だ。エイゼンシュテインのどの作品にもまして、『カメラを持った男』は、観客自らがイメージを解読することを積極的に引き受けることを要求する。その役割を拒むことは、映画館を去ること、あるいは夢の中に逃げ込むことに等しい。
(ノエル・バーチ)
「ジガ・ヴェルトフを讃えよう」*2
ジガ・ヴェルトフを讃えよう
最も優れたドキュメンタリーを10本選べと言われたならば
ばかばかしいと言うだろう
しかし一本だけ選ばなければならないのなら
『世界の6分の1』だ
というのも、われわれの歴史におけるこの瞬間、この再生
この夜明け、われわれの記憶のこの誕生を
良くも悪くもわれわれの世界になるはずだったものの
この最初の下絵を
プドフキンはわれわれに思い描かせてくれた
エイゼンシュテインはわれわれに夢見させてくれた
だがそれを見せてくれたのはただひとりだけ
ジガ・ヴェルトフだ(クリス・マルケル)