明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

『縮みゆく人間』『ピーター・セラーズのマ☆ウ☆ス』


MacBook が思ったより早く届き、早速ありとあらゆることを試していたので、また更新するのをすっかり忘れてしまっていた。昨日など、寝る前になってようやくメールをチェックすることを忘れていたことに気づいたくらいだ。環境がある程度整ったので、またぼちぼち書きはじめる(まだいくつか解決しなければならない問題が残っているので、更新は若干遅れるかもしれませんが、大目に見てください)。

久しぶりに新しいマシーンを手に入れたので、日々発見に次ぐ発見だった。その辺のことを書きたい気分なのだが、たまには映画のことも書かないとただでさえ少ない読者がどんどん減っていきそうだ。今日は久しぶりに映画のことを書くことにしよう(久しぶりに書くのでいつも以上に切れ味がないかもしれないが、それも多めに見てください。それにしてもこの MacBook は快適だ。ソフトの切り替えなども何のストレスも感じずにスムースに行うことができる)。


今日の話題は、『縮みゆく人間』『ピーター・セラーズのマ☆ウ☆ス』。どちらもジャック・アーノルドの作品である。新年早々から取り上げる映画でもないと思うが、このブログはこういう地味なテーマばかりを扱うところなので、ご了承願いたい。

ジャック・アーノルドは『大アマゾンの半魚人』で知られる監督だ。『タランチュラの襲撃』などのヒット作を飛ばしたSF・モンスター映画の巨匠だが、それほど有名とは思えない。半魚人やタランチュラのことは知っていても、その映画を撮った監督の名前をいえる人は少ないだろう。ジョン・フォードハワード・ホークスのように揺るぎない作家性はもっていず、かといってエドガー・G・ウルマーやジョゼフ・H・ルイスのようなある種の神話性を身にまとっているわけでもない。シネフィルのあいだで名前を出しても冷たい反応しかかえってこない可能性さえある。要は、話題にしてもあまりかっこよくない監督なのだ。

しかし、わたしにとっては、子供のころにテレビで見た『大アマゾンの半魚人』の強烈な印象が忘れがたく、それだけでもアーノルドは貴重な監督である。もちろん、当時はジャック・アーノルドという名前など知らなかったが、だいぶ後になってその存在を知って以来、アーノルドは一目置く存在になっていた。とはいうものの、ソフト化されているものはあまり多くない(調べてみたら、日本で手に入るアーノルドの DVD は『大アマゾンの半魚人』ぐらいのようだ)。街の映画館で見る機会にいたっては皆無であり、いままでほとんど作品を見られずにいた。


『縮みゆく人間』『ピーター・セラーズのマ☆ウ☆ス』も、両方とも海外版のDVDで見たものである。実は、後になって、『ピーター・セラーズのマ☆ウ☆ス』は日本でビデオが出ていることを知った。もっとも、レンタルショップで見た記憶がないので、入手するのは難しいかもしれない(意識して探したことがないので、案外どこにでも置いてあるのかも。いずれにせよ、オリジナルはワイドスクリーンなので、DVD で見るにこしたことはない)。


『縮みゆく人間』 The Incredible Shrinking Man(57)は、タイトルから簡単に想像がつくように、放射能物質を浴びたために体が次第に縮みはじめるという incredible な奇病にかかってしまった男の姿を描いたSF映画。作品のなかではっきりと「放射能』という言葉を使っていたかどうかは思い出せないのだが、明らかに核が意識されている(この時代は、『放射能X』とか『ゴジラ』とか、いろいろありました)。体が小さくなってしまうというのは、わりと最近では『ミクロキッズ』とか、少し古いところではリチャード・フライシャーの『ミクロの決死圏』(66)など、これまで映画のなかで幾度も描かれてきた。が、それらの多くは、その特異な状況をコミカルに、あるいは派手なスペクタクルとして描いたものがほとんどだ。『縮みゆく人間』がそれらとは一線を画しているのは、その淡々とした描き方にある。『ミクロの決死圏』よりは、スウィフトの『ガリバー旅行記』にずっと近い作品といったらいいだろうか。特に後半、猫に追われて地下室に落ちてしまった主人公が、妻にも死んだと思い込まれ、たった一人で生活(というかサバイバル)をつづける姿を描いた部分は、ほとんど台詞もなく、まるで昆虫観察でもするかのようにすべてが描かれてゆく(昆虫観察とスウィフトといったら、まるでブニュエルみたいだが)。

いまならSFXを多用して、ほとんどCGだらけの映画になるところである。たしかに、この映画でも合成画面がいたるところに使われているが、ところどころでは、巨大なセットを作って、そこで俳優を動き回らせているのではないかと思う。確かめたわけではないが、多分そうではないだろうか。でなければ、あんなに合成がうまくいくとは思えない。これは、トッド・ブラウニングが『悪魔の人形』(36)で試みた技法だったはず(この作品は、ジャン=ルイ・シェフールの『L'Homme ordinaire du cinéma』の口絵写真を見て以来ずっと見たいと思っている映画なのだが、いまだに見る機会がない)。

そして、驚くのがラスト。いまどきあり得ないアン・ハッピーエンドには一瞬あぜんとする。しかし、この終わり方は、見ようによっては楽天的といってもいいものであり、それがまたなんともいえない後味を残す。あとで、脚本を書いたのがリチャード・マシスンだと知り、納得した。説明する必要もないと思うが、スピルバーグの『激突』を書いた作家である。わたしはこの人が書いた『地球最後の男』という本が大好きなのだ。数ある吸血鬼小説のベスト3に入る大傑作である(あとの2作はなにかって? シオドア・スタージョン『きみの血を』が特殊すぎるというのなら、スティーヴン・キングの『呪われた街』でもあげておこうか)。いや、吸血鬼小説というよりも、人類最後の人間を一人称で描いた作品といったほうがいいかもしれない。

『縮みゆく人間』には、『地球最後の男』と通じる部分がある。これは、人類最後で、そして最初の人間を描いた映画なのである。

(話があちこちそれたので、『ピーター・セラーズのマ☆ウ☆ス』について書くのはまたの機会にしたい。あまり知られていないが、これも隠れた傑作なのだ。)