リリアン・J・ブラウン「The Cat Who Came to Breakfast」を読みはじめる。シャム猫ココが鋭い勘で事件を解決してゆく人気ミステリー・シリーズの一冊だ。このシリーズに挑戦するのは初めてである。「猫の文学──猫本大全集」などというページを作って公開しているからには、こういうものにも一応目を通しておく必要がある。まだ60ページほどしか読んでいないので、判断するのは早いと思うが、いまのところそれほど面白くない。これからの展開に期待することにしよう。ただし、英語は非常に読みやすい(だから、読んでも英語の勉強にはあまりならないのだが)。
それにしても、リタ・メイ・ブラウンの「トラ猫ミセス・マーフィ」や赤川次郎の「三毛猫ホームズ」などのシリーズもの、あるいは奥泉光が漱石を巧妙にパスティッシュした『吾輩は猫である殺人事件』など、どうしてこうもネコが探偵として活躍するミステリーが多いのだろうか。
小さいころからずっとネコと一緒に暮らしてきた人間としては、ネコほど探偵にむいていない動物はいないと思う。たしかに何にでも首をつっこむが、あきっぽいし、何度も同じ過ちをくり返す。帰納とも演繹とも無縁の存在だ。ネコは泥棒のほうがむいているというのがわたしの結論である(『泥棒成金』を見よ)。
不思議といえば、警察犬などというものが存在する一方で、犬が探偵として活躍するミステリーはあまり思い浮かばない。わたしが犬文学に疎いだけなのだろうか。アイザック・アシモフが編集した『犬はミステリー』などといった本が何冊か出たりもしているが、単に犬が出てくるだけというものがほとんどである。探偵犬が活躍するミステリーも探せばあるのだろうが、シリーズ化されているほど有名なものはないのではないか。結局、ミステリーの犬といえば、『バスカヴィル家の犬』のような魔犬のほうが、わたしには忘れがたい。そういえば、ゴダールの『ヌーヴェル・ヴァーグ』で、突然誰かが「バスカヴィル家の犬!」と叫ぶシーンがあった(字幕には訳出されていなかったが)。あれは何だったのだろう。
「〈崩壊以後〉の映画としてのイーストウッド論」を増補した新装版で登場。正直いって、丹生谷貴志の書いたものの中ではいちばん面白くなかった本だが、丹生谷貴志入門として読むといいのではないか。
これも増補改訂版。
浅田彰による推薦の言葉:
「演劇的なるものと権力的なるものの交錯を読み解く対話が、それ自体、演劇的な力をもって立ち現れる。自らを匿名化しようとしたフランスの哲学者がそれにもかかわらず捨てきれなかったフランボワイヤントな言葉に、フランス人よりも華麗なフランス語を操る日本の演出家の言葉が拮抗する。ミシェル・フーコーと渡邊守章の遭遇は、そういう稀有な出来事だった。フーコーを読み解く者は今も世界中にいる。だが、このようなフーコーとの対話は、当時も今もほとんど類例がない。この貴重な記録は、変貌の途上にあったフーコーの実像を示す興味深い内容に加え、自らを焼き尽くさんばかりの言葉の力によって、現代の読者をも圧倒するだろう。」
『ブレヒトの映画・映画論 (新装新版ベルトルト・ブレヒトの仕事 6)』
こちらも大昔出ていたものの新装改訂版。前々から出ることは知っていたが、やっと店頭にお目見えした。
[2005年3月に実施された上映・展示企画『ペドロ・コスタ 世界へのまなざし』の記録集。 ペドロ・コスタ監督と蓮實重彦氏の対談、ポルトガルでの監督へインタビュー、 ギャラリーに展示された『ヴァンダの部屋』ヴィデオ・インスタレーションや仙台での監督の表情(撮影:田村尚子)など。
注意と情熱/二度生まれた映画作家(対談:ペドロ・コスタ×蓮實重彦)
inside / outside--ペドロ・コスタの街路(北小路隆志)
敷居をまたぐ瞬間(ペドロ・コスタ)
『ヴァンダの部屋』ヴィデオ・インスタレーション(撮影:田村尚子)]