明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

セルジュ・ダネーによるサミュエル・フラー論「物語への狂熱」


全体の4分の一程度の抄訳。ま、いつもの適当訳です(といいつつ、一応ちゃんと訳したつもり)。気が向いたら続きも訳します。

「物語への狂熱」(Fureur du recit*1

セルジュ・ダネー


ゼロの観客

フラーの作品が50年代のフランスの批評家の一部にかくも気に入られ、「カイエ」においてフラーがまるで現代の映画作家のように扱われたのは、彼が、ウェルズを例外として、他のどのアメリカの映画作家よりも、〈現実(アクチュアリテ)〉という観念に取りつかれていたからである。過去の出来事を語っているときでさえ、フラーはいつも「初めて」という感覚を、最初の映画という感覚を、作り出すことができた。あたかも、彼以前には、映画を撮ったものなどだれ一人存在せず、映画を見たものなどだれ一人いなかったかのように。一方で、フラーは歴史の裏側や、そのパラドックスに興味を持っていた(フラーの映画の主人公たちはいつもペテン師である。偽の男爵、偽のギャング、偽のスー族、偽の狂人)。他方で、彼の語る物語には、いつも、〈創生的 fondateur〉な側面があった。彼の処女作『地獄への挑戦』は、自分が主役であった事件を芝居で演じなおすことになる男を描いている。『赤い矢』のラストでは、観客に向かってこう語りかけられる。「この物語の結末、それを書いたのはあなたたち観客だ」。フラーの映画には、「観客は何一つ知らない」という考えから出発する、従軍記者と狂った教育者がいるのである。いや、何一つ、ではなく、ほとんど何一つ、と言いなおそう。アリゾナの男爵とはだれか、オマラ軍曹とはだれか、ヴェアボルフ、あるいはヒトラーとはだれかを一言で説明するために、フラーは、観客がたぶん持っているであろう知識を当てにしたりは決してしない。観客は自分と同じように、独学者であり、急いでいるのだとフラーは想像しているはずである。だから、実際よりも無知蒙昧に扱われていらだった教養ある思慮深い観客は、フラーの映画をいつも憎み、プリミティヴで単純すぎると考え、けなしてきたのだ。というのも、フラーの映画で観客を当惑させるのは(あるいは、逆に、唖然とさせ、無理やり同意させてしまうのは)、そのイデオロギー的信条ではなく(フラーが左派ではなく、愛国主義者であり、共産主義者を憎んでいるのは明らかである)、情報とフィクションをつなぐこの〈性急さ〉なのである。情報とは、名前を持つものすべてである(フラーは固有名詞に憑かれていた)。フィクションとは、仮面を持つものすべてである(二重の演技ほど、彼を興奮させるものはない)。
この性急さは、時間を稼ぐための優雅な手法である省略とは別のものだ。また『赤い矢』を例に出すなら、南北戦争が今終わったばかりであることを語るにはどうすればいいか? 新聞の一面を見せたり、取り乱した端役の一人にそのことを言わせることもできるだろう。だが、そのようなスピーディさにフラーは興味はない。彼が興味を持っているのは、端役によって演じられるリー将軍の降伏の場面を撮ること、彼が足早に、しかし誇張することなく、グラント将軍を演じるもう一人の端役のほうに向かって歩いてゆく場面を撮ることである。あるがままの歴史的事件、だが、それはインサート・カットのかたちで描かれる。
現実(アクチュアリティ)と一時的なパースペクティヴの欠如によるめまい。そこにこそフラーの現代性がある。低予算で撮られた小品だが、素晴らしい、先駆的映画(『Verboten!』)のなかで、フラーは『ドイツ零年』のロッセリーニに近づく。そして、『最前線物語』を見ているときに思いをはせるのも、やはりロッセリーニのことである。この映画で、観客と兵士たちは、戦争と同時に、戦争以上のものを発見する。戦争の背景と貯蔵庫の役割を果たす、風景と住民とを。ゴダールのことも思い浮かべる。ただしゴダールにおいては、明示すること=デノテーション(「猫を猫と呼ぶこと」)への情熱が、物語への嗜好をいつも凌駕しかねないところがある。フラーにおいては、ことは真逆である。物語が何よりも勝り、すべてを捻じ曲げ、脱線させるのである。ジャン=リュック・ゴダールはほとんど何も物語らない。サミュエル・フラーは過剰に物語る。一方はスローモーションで進み、他方は前方へと逃走する。だが、結果は同じである。二人ともマージナルな存在に、危険で、決して推薦できない映画作家になるのだ。

*1:意外と訳しにくいタイトル。"Fureur" はもちろん "Fuller" とかけた駄洒落。