クロード・ファルラド『テムロック』(Themroc, 1973)
★★★
またしても奇妙奇天烈な映画を発見してしまった。いろんな映画を見てきたつもりだったが、まだこんなものが残っていたとは。つくづく映画とは奥が深いものだ。
それにしても、アンダーグランドの底深いところで作られた映画ならともかく、ここにはミシェル・ピコリを始め、『クレールの膝』のベアトリス・ロマンや、ミュウ・ミュウといった名の知れた俳優たちも多数出演しているのだから、なおさら驚く(その多くはカフェ・ド・ラ・ガールの団員である)。ミシェル・ピコリは数々の風変わりな役を演じてきたが(その最たるものは、『最後の晩餐』『Dillinger è morto』などのマルコ・フェッレーリが監督したいくつかの作品である)、この映画のピコリの役は、彼が生涯に演じたあらゆる役のなかで最もエキセントリックなものといえるかもしれない。
見始めてまず驚くのは、この映画には台詞がないことだ。台詞がないといっても、『裸の島』のように登場人物がだれも喋らないわけでもなければ、『アーチスト』のように擬似サイレント映画風に作られているわけでもない。みんな普通に話しているし、その声も観客には聞こえている。ただ、彼らが話す言葉がまったく意味不明なのである。なにやら言葉らしきものを喋ってはいるのだが、もごもごと口ごもるようにして吐き出されるその言葉は、どこの国の言葉でもなく、ときには言葉としての体さえなしていない。それでも、彼らの間ではそれで十分にコミュニケーションが取れているらしく、だれも相手に聞き返したり、意味を尋ねたりすることもない。ただ、観客にはその言葉がまったく意味不明なのだ(この言葉の扱い方は、ジャック・タチの作品のそれを思い出させもする)。しかし、そんな風に理解可能な言葉がひとつとして発せられないにもかかわらず、観客にはおおよその状況が理解できるように、この映画は作られている。
要約してみよう。
ミシェル・ピコリ演じる主人公は、ビルの塗装の仕事をしている低賃金労働者で、毎朝バスで仕事場に行き、彼と同じような労働者たちに混じって、毎日同じような仕事を繰り返して生きているらしい(ロッカー・ルームでピコリの同僚たちが、赤と白のユニフォームに着替えて2チームに分かれるシーンが出てくるから、一瞬、ラグビーの選手か何かと思ってしまう。紅白に分かれる理由は、結局、わからなかった)。あるとき、彼は、社長らしき人物が秘書と浮気をしている現場を、高いビルの窓から仕事中に目撃してしまう。たぶんそれが原因で、ピコリは社長に呼び出され、なにやら小言を受ける。むろん、このときも、社長が語る言葉はまったく意味不明である。ピコリのほうはというと、社長の一言一言に、ゴホゴホと咳き込むというか、その咳でもって返答するだけで、もはや意味不明の言葉さえまともに発しない(ピコリと咳というと、この十数年後に撮られるゴダール『パッション』におけるピコリの役をどうしても思い出してしまう)。
そして彼はそのまま社長室を出てゆくのだが、ここで何かがぷつんと切れてしまったのか、この直後からピコリの行動は次第に常軌を逸してゆく。まずは、どこかから拾ってきたコンクリートブロックを荷台に積んで自宅に持ち帰ると、入り口のドアにそれを積み上げてセメントで固め、自分と家族をマンションの中に閉じ込めてしまう。もっとも、家族といっても何か説明があるわけではないので、ピコリとの関係は推測するしかない。年老いた女は明らかに母親だろうが、ベッドで裸同然の姿で寝ている若い女(ベアトリス・ロマン)は誰なのか。ピコリが彼女を見るときの様子などから、愛人とはいかないまでも、彼がひそかに淫らな感情を寄せている女なのかなと思ってみていたのだが、実は、彼女はピコリの妹であるらしい。いずれにしても、もはやここには普通の意味での親子や、兄妹の関係は存在しないといっていい。
ピコリは入り口のドアを封じる一方で、通りに面した窓の枠をハンマーで叩き壊しはじめ、それから、家のなかにあるテレビや家具など、ありとあらゆる文明の利器をそこから下に放り投げる。やがて騒ぎを聞きつけて警察の機動隊が出動してくるのだが、ピコリはまったく意に介さず、逆にこの状況を楽しんでさえいるようにも見える。しかし、おかしいのはピコリだけではない。警察のほうもどう見ても普通ではないのだ。現場に集まった野次馬の一人をぼこぼこに殴りはじめる警官がいるかと思えば、同じく現場周辺にいた若い女を羽交い絞めにしてレイプしはじめる警官たちもいる。一部の警官だけとはいえ、彼らがやっていることを周りの警官たちは、知ってか知らずか、だれ一人注意しない。
そうこうするうちに、近隣の住民たちのなかにピコリの〈反乱〉に共感する者たちも現れはじめる。とりわけ、ピコリの住居の向かいのビルに住む女は、彼の行動に激しく反応し、同じように自宅の窓枠をハンマーで壊しはじめ、彼女の夫もそれに理解を示すようなそぶりを見せる。やがて、そんな住民たちが数名、縄梯子を伝ってピコリの住居に集まってくるようになる。
社会生活のレールから外れはじめたときから、ピコリの口から発せられるのは、もはや意味不明の言葉でも、文節不明瞭な言葉ですらなく、アーとか、ガウガウとかいった、うめき声や叫びでしかない。人間というよりは、まるで一匹の獣である。あるいは、石器時代の人間にまで退化してしまったといったほうが正確だろうか。だれかがこの映画のピコリをレオス・カラックス作品(とりわけ「メルド」)におけるドニ・ラヴァンと比較していたが、そのとおりだと思った(機動隊によって投げ込まれた催涙弾の臭いをうまそうにかぐシーンなどを見ると、もはやこいつは動物でさえなく、宇宙人なのではないかという気さえしてくるのだが)。そして彼の周りに集まってくるものたちも、同じように、反社会化してゆくというよりは、社会性を次第に失ってゆく。彼らは、他人だろうと、兄妹だろうと、何のタブーも感じずに肉体的に交わる。
しかし彼らの奇行はそれだけにとどまらない。ピコリは、夜中、はしごを使って一人で夜の街に出かけてゆくと、警官を2名ほど殴り倒して自宅につれて帰り、それを丸焼きにする。そして、その人肉を、彼の周りに集まったものたちも嬉々として食べはじめるのだ……(人肉嗜食というテーマも、『ウイークエンド』(67)を通じてまたゴダールとつながるのだが、これは偶然だろうか)。
もうめちゃくちゃである。しかし、一見意味不明であるこの映画は、実に単純明快な作品であるとも言える。その場ではだれが支配者であり、だれが被支配者であるのか。だれが権力の側にいて、だれがその支配下にあるのか。そんなことは見ればわかることであり、いちいち説明する言葉など必要ないのである。だからこの映画では普通の言葉は一切話されないというわけだ(しかし、この映画に理解可能な言葉が欠落している理由は、それだけではないだろう。政治的、社会的、あるいはエディプス的な、全ての抑圧に逆らうというのであれば、それを支えている言葉というシステムもまた根底から問題視されるというのは、当然といえば当然のことである)。
むろん、ここには1968年5月の革命の、あるいはその挫折の余波が色濃く反映されているのだろう。同時代のフランス映画だけを取り上げるならば、この作品が撮られたころには、例えばギ・ドゥボールの『スペクタクルの社会』(74)のように5月以後の社会の現状を映画という媒体を通して分析し、そこに一定の理論を与えようとする作品や、ゴダールの『万事快調』(72)のように工場のストライキ騒動をジャック・タチ風に描きつつ労働と愛というテーマを取り上げた〈教育映画〉、あるいは、直接政治や社会問題が描かれるわけではないが、恋愛映画のなかに同時代の社会の空気を見事に描き出し、ある意味、絶望的に〈別の生〉への渇望を感じさせたユスターシュの『ママと娼婦』といった作品が作られていた。そんななかで、クロード・ファルラドの『テムロック』は、その是非はともかくとして、生産ではなく破壊というアナーキーな方向に最も振り子を切った作品のひとつであったことは間違いない(そこに、この作品と同じ年に撮られたジャック・ドワイヨンらによる『01年』を付け加えてもいいだろう。そこでは、〈すべてを止める〉をモットーに、労働も、時間割も、車も、テレビもない世界で、人々が気ままに散歩し、議論し、歌い、フリー・セックスに興じる世界、まさしくユートピアの01年が描かれていたのだった。事実、この作品は、当時の「カイエ・デュ・シネマ」において、『テムロック』と一まとめに論じられている*1)。
[それにしても「テムロック」とはいったい何なのだろう。映画のなかで、隣のビルの女と、催涙弾をラグビーボールのように投げ合いながら、ピコリが「テムロック!」と何度も叫ぶシーンがあるだけで、結局、何の意味かぜんぜんわからなかった。それが実はピコリ演じる男の名前だと知ったのは、映画を見終わってからだ(ひょっとしたら、途中にあるヒントを見落としていただけかもしれないが)。]
*1:『01年』が当時話題になっていた漫画にインスパイアされたものだということは知っていたが、その漫画というのがあの「シャルリ・エブド」の漫画家ジェベのものだというのを知ったのはつい最近である。