兵庫県立美術館でフェルメールを見たあと、一階のロビーからガラス張りの自動扉を通って建物の外にあるテラスのほうに何気なく歩いていくと、そこに水辺が広がっていたので驚いた。思わず、ソクーロフの『エルミタージュ幻想』のラストを思い出してしまう。エルミタージュはネヴァ川のほとりに位置しているのだからあれは幻想というわけではないのだが、ワンショット・ワンシークエンスで撮られた映像の緊張感を一瞬一瞬に感じながら、迷路のような美術館の時空を、息詰まるような気持ちで旅してきた果てに、ついに建物の外に出たキャメラが映し出す水のイメージは、ソクーロフ一流の特殊な細工を施されてゆがみ、まるで幻のように現れるのだった。
いまから急げば七芸でやっているアンゲロプロスの『狩人』に少し遅れて間に合うという時間だったが、ついふらふらと誘われて水辺のほうに降りてゆくと、そこには殺風景な散歩道がただ広がっているだけだった。最寄りの駅に降りたときから、まるで作り物みたいに人工的な町だと思っていたのだが、ここにも、いかにもといった散歩道をいかにもといった散歩者が三々五々歩いているばかりだ。散歩道は海のほうから船がはいってくる運河のようなものにそって走っている。とりあえず、少し散歩してみたがさして気分が高揚するわけでもないので、すぐに引き返すことにする。このあたりも震災のあとのどさくさのなかで宅地整備されたのだろうか。こういうところを歩いているとつい、大洪水で水没してしまえば少しは詩的な味わいがでるかもしれない、と、いつもの水没幻想に駆られてしまう。わたしは町が水に沈んでいるのを見るとなぜかうれしくなってしまうのだ。そういえばアンゲロプロスも『エレニの旅』で、村を丸ごと水没させてしまっていたのを思い出す。『狩人』には間に合いそうもなくなった。