明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

エルミタージュのほうへ、ソクーロフ『旅のエレジー』


夜桜がちらほらと舞うなか、野外で薪能がおこなわれている。そこはどう見ても日本のようなのだが、終始聞こえているモノローグのなかに「日本」という言葉はでてこない。たくさんの観客が舞台を見つめているが、夜の上に、画面にはうっすらと紗がかかっていて、すべてが夢の中の光景のようだ。やがて、もやが立ちこめるなか、能面をつけた役者が亡霊のように舞台に歩みでてくる。「気がつくと別世界にいた」というドストエフスキーの言葉を、モノローグの声が記憶のなかからたぐり寄せるようにつぶやき、画面手前の桜の姿がアップでとらえていたかと思うと、いつの間にかわれわれは一枚の絵のなかにいる。

桜だと思って見つめていたのは、絵のなかに描かれていた一本の木だった。美しい花を咲かしたその木を仰ぎ見るかたちでとらえていたキャメラがゆっくりとパン・ダウンしてゆくと、その下に崖が見え、左手にその崖の上へとつづく階段が見えてくる。キャメラが絵のなかに描かれた光景を、夢のような実在感でゆっくりと描き出してゆくのにあわせて、モノローグの声が記憶のなかから一つの名前をしだいにたぐり寄せてゆく。

「この絵を描いたのはだれだったか?・・・そうだ、思い出した・・・覚えている・・・ロベール。ユベール・ロベールだ」


アレクサンドル・ソクーロフRobert. Schastlivanya zhizn (Robert.A Fortunate Life, 1996) はそんな風にはじまる。

この映画は、エルミタージュ美術館からの依頼でソクーロフが、フランスの画家ユベール・ロベールについて撮りあげたドキュメンタリー作品だ。エルミタージュと聞けば、だれもがすぐ『エルミタージュ幻想』(2002) を思い出すだろう。この短編ドキュメンタリーには、まさしく、『エルミタージュ幻想』のエチュード的な趣がある。エルミタージュにはロベールの絵が多数収められているのだ。

ユベール・ロベールという画家がわたしのお気に入りの一人であることは、前にどこかで言ったと思う。実はソクーロフがユベール・ロベールの映画を撮っていたことを、わたしはつい最近になって知った。この映画は日本では未公開であり、わたしの知る限り、関西では上映されたことがないはずだ。日本ではソフト化もされていない。ソクーロフアメリカではなぜか人気があるらしく、この作品はすでに DVD になっており、わたしが見たのもこの北米版 DVD でだ。

能とユベール・ロベールという組み合わせは一見奇異に思えるが、廃墟の画家といわれ、ルーヴル美術館の初代館長という立場にありながら、ルーヴルの未来を廃墟になった美術館という過去の姿で描き出すほどに、過去を愛したこの特異な画家と、能の幽玄の世界は不思議に呼応しあっているように、映画を見ていると思えてくる。

ソクーロフの手にかかると、絵のなかにまで靄が立ちこめ、風の音が吹きすさぶ。キャメラは、ややともすると、絵の表面に描かれた石柱の裏側にまで回り込みそうなぐらい、絵画のなかに入りこんでしまっている。絵を撮っているというよりも、絵のなかで撮っているかのような、不思議な感覚だ。



この DVD には実はもう一本、絵画と映画についてのソクーロフの考察をかいま見ることのできる作品、 Elegiya dorogi (英語タイトルとフランス語タイトルはどちらも、直訳すると「旅のエレジー」)が収録されている。これは、一言でいうなら、ロード・ムーヴィーふうのフィクショナルなドキュメンタリーということにでもなるだろうか(強いていうなら、青山真治の『路地へ』の雰囲気が近いかもしれない)。ここでも、ソクーロフらしきモノローグの声が、不確かな記憶を手探りするように、自らに問いかけながら、どこかわからない目的地に向かって、船で、車で、ひたすら旅をつづける。

どこかのレストランで出会った青年が話しかけるセリフさえも、モノローグの声を使って間接話法で処理するという徹底ぶりで、一人称の旅はつづけられる。やげて、われわれはとある館にたどり着く。どうやらそこは美術館のようであり、壁にはたくさんの絵が飾ってある。キャメラは、ここでも絵の一つひとつをなめるように撮ってゆき、そのなかの一枚のなかへと吸い込まれるようにはいってゆくところで、映画は終わっている。

この作品は『エルミタージュ幻想』と同じ年に撮られた。おそらく、こちらのほうが先に撮られたのだろう。作品の最後の部分は、『エルミタージュ幻想』を直ちに想起させる。先ほどの Robert. Schastlivanya zhizn と同じく、これも『エルミタージュ幻想』の習作といっていいだろう。

最初から最後まで寒々とした光景がつづく作品だが、実に素晴らしい。『旅のエレジー』は、おなじエレジー・シリーズの『ロシアン・エレジー』などと並んで、わたしが好きな数少ないソクーロフ作品のひとつになった。



ソクーロフが日本好きのこともあって、ソクーロフの作品は興行的に厳しそうなものでも日本で公開されることが多いのだが、まだまだ公開されていない作品も多い。最近見たものでは、『ヴィオラソナタ・ショスタコーヴィッチ』Povinnost (Confession) なども未公開だ。

ヴィオラソナタショスタコーヴィッチ』(88) は未公開だが、どこかで上映されたことはあるようで、一応この邦題で通っている。当時の記録映画のフッテージなどを多用してつくられた作品で、いまあげた2作にくらべるとごく普通のドキュメンタリーに見えるが、冒頭の巨大な振り子のようなものをとらえたイメージはずっと記憶に残りつづけそうだ。


Povinnost (98) は、『精神の声』の系列にある作品といえばわかりやすいかもしれない。北極海を巡航するロシアの軍艦の乗組員たちの日常を淡々と描いたテレビ映画で、約40分の短編5本で構成されている。DV で撮っていると思うので、画面はのっぺりとしていて、じっくりと見ないとなにが映っているのかわからない場面もたまにある。この映画も、船長の日記というかたちで、ナレーションをとおして語られてゆく(Confession というタイトルはここからきている)。これといった物語はなにもなく、全くのドキュメンタリーのように見えるが、各話の最初に「この映画の登場人物はフィクションである」という意味の字幕が毎回出る。

とくに意味はないのだろうが、若い男たちの裸がやたら出てくる作品だ(その点も、『精神の声』を思い出させる)。つづけて見るのはつらそうなので、休み休みしながらなんとか全5話を見終えた。いささか退屈な印象は否めないが、この退屈さがソクーロフのファンにはたまらないのかもしれない。これもまた実に寒々とした映画である。細かい雪が、降るというよりも、ヒューという風の音とともに常に右に左に舞っている。寒い映画の一本として、わたしの記憶に残りつづけるだろう。