明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ジル・ドゥルーズ『シネマ』覚書(1)


財津理が、『ドゥルーズ 没後10年、入門のために』という本に、「シネマを訳しながら、心をよぎること」というエッセイを書いているのを発見した。してみると、『シネマ』は財津理が訳しているらしい。10年以上前には宇波彰(懐かしい名前だ)が訳しているという噂が流れていたこの本だが、あれからいっこうに翻訳が出ないうちに紆余曲折あり、いまはそういうことになっているらしい。「まもなく出版の運びとなる」とこの文章には書いてあるが、この本が出たのはすでにもう一年近く前のことである。翻訳を心待ちにしている人はあと一年ぐらいは待っていたほうがいいかもしれない。「ますます、自分の言葉に確信がもてなくなってきた」と、この訳者はここで恨み言をいっているぐらいだから、その可能性は十分ある。しかし、その気持ちはわからないではない。言葉というのは、じっと見つめれば見つめるほど確信がもてなくなってくる、底なし沼のような深さをもっているものだ。翻訳に限らず、多少とも真剣に言葉とつきあったことがあるものならわかるはずである(もっとも、誤字脱字だらけ、意味がよくわからない文章だらけの掲示板の書き込みなどを見ていると、ネットという環境は言葉を研ぎ澄ますのにはむいていないように思えるが、と自戒を込めて書いておく)。

ところで、この財津理のエッセイには、共訳者がいるというたぐいのことはまったく書かれていない。まさかとは思うが彼ひとりで訳しているのだろうか。財津理は『差異と反復』なども訳しているベテランのドゥルーズ読みではあるが、どう見ても映画のことは詳しいとは思えない。このへんはシネフィルからつっこみがはいりそうなところだが、「もちろん、一介の思想研究家にすぎない私が、ドゥルーズの『シネマ』第一巻の翻訳を担当するようになったことには異論もあろうが」、と初っぱなからやや牽制気味に書いているところを見ると、それは本人も自覚しているようだ。それにいま引用しながら気づいたが、「第一巻」と書いているので、「第二巻」は別の訳者が担当するということだろうか。すると、第二巻の翻訳はさらに一年後ぐらいに登場ということにもなりそうだ。

この本はたしかに、映画の本というよりも哲学の本といったほうがいいかもしれない内容を扱っており、映画のことしか知らない映画バカにはとうてい訳せないものである。とはいえ、ドゥルーズはこの本のなかで、個々の映画作品について非常に具体的な分析をおこなっており、しかもその数は膨大である。そのなかには、わたしでさえ見ていないものが多々ある。あまり映画に詳しくない人が訳して大丈夫だろうか。もちろん、そのへんはだれかにいちいち確認しながらやっていくのだろうが、つい心配になってしまう。

そもそも、わたしはドゥルーズの本はほとんどフランス語の原書で読むことにしている。翻訳というのはオリジナルの文書に比べて多少とも見劣りのするものとなる宿命にあるのだが、ドゥルーズの翻訳を読んでいるととりわけそれを感じてしまう。といっても、ドゥルーズ関係の翻訳がひどいということではない。それらは相対的に悪くはない出来であるといってもいいだろう。ただ、残念ながら、ドゥルーズを翻訳で読むと、フランス語で読んでいるときのスピード感がまったくといっていいほど消え失せてしまうのだ。フランス語のほうが速く読めるといっているのではもちろんない。辞書を引きひき読んでいるときでさえ、翻訳ですらすら読み進むよりもスピード感があるのである。あの運動感をどうやって説明していいかわからないが、フランス人ならこんなとき、「Ça bouge!」とでもいうのだろうか。全2巻の『シネマ』はドゥルーズとしては例外的な大作であるにもかかわらず、読んでいてとても足取りが軽い。軽いというのはもちろん悪い意味ではなく、つねに新しいなにかが目の前で生まれるのを見ているような、そんな驚きに満ちた軽さのことをいっているのである。


ところで、最近、わたしはこの『シネマ』を最初から読み返しはじめた。フランスで出版されて数年後に購入して以来、何度も読み返してきた本である。特に一巻目はもうぼろぼろになりかけている。とはいえ、ただ読んでいるだけでは、わからないところをついとばし読みしてしまうことが多い。というわけで、できうる限り精読してみようと考えたのである。読みながら気がついたことをここに書き留めていこうと思う。わたしは映画に関しては相当詳しいと自分では思っているが、哲学についてはずぶの素人である。しかし、関心だけはずっともっているし、理解しているかどうかはともかく、哲学・思想書もいろいろ読んできた。ふつうの映画ファンに比べたら哲学者といってもいいぐらいだろう(冗談です)。つまらない独り言も、だれかのなにかの役に立たないとも限らない。まもなく翻訳が出るということだが、そのまもなくがいつになるかわからないし。そのときまでつづけるかどうかわからないが、とにかく気の済むまでやってみるつもりだ。


今日はまず、第一巻『運動-イマージュ』の序文から。

序文といっても2ページ弱の短いものである。しかし、ここにはかなり重要なことが書かれている。

「この研究は映画史ではない。イマージュと記号の分類学、分類の試みである」。これがこの序文の書き出しの部分だ。映画のイマージュをもろもろのタイプに分類していくというのが、この本でドゥルーズが試みていることである。その際、この序文でもふれられているように、ドゥルーズが参照点としているのが、アメリカの論理学者パースの著作である。イマージュを分類する際にドゥルーズが用いる一見奇妙とも思える用語の多くは、パースの『記号学』から借りてこられたものだ。ただし、ドゥルーズはパースの用語をかなり自由に援用している。

パースとならんでもうひとつの参照点としてドゥルーズが挙げているのがベルクソンである。

パースと同じぐらい比較参照する必要があるものがもうひとつある。ベルクソンは1896年に『物質と記憶』を執筆していた。それは心理学の危機を診断する本だった。外部世界の物理的現実としての運動と、意識のなかの心理的現実としてのイマージュを対立させることはもはやできできなくなる。ベルグソンによるイマージュ=運動の発見、さらに深遠なイマージュ=時間の発見は、今日もなおその豊かさを失ってはおらず、この発見からすべての結論が引き出されたとはいいきれない。この後でベルクソンはあまりにもおおざっぱな映画批判をおこなうことになるのだが、彼の考えるイマージュ=運動と映画イマージュを結びつけることを妨げるものはなにもないのである。


『シネマ』はベルクソンの哲学についての長い注釈といっても過言ではない。それほどまでに、この哲学者はこの本の中心に位置している。『物質と記憶』を読んでいないものが『シネマ』を読んでも無意味だといってもいいくらいだ。たしかに、無意味というのは言い過ぎかもしれない。この本は、簡にして要を得た映画作家たちのモノグラフィーとして読むこともでき、それだけでも無類に面白いからだ。しかし、それではこの本のもっているポテンシャルを数パーセントも引き出したことにならないだろう。

日本で『シネマ』について書かれた文章の多くも、この本とベルクソンの哲学との関係を論じている。その一方で、パースの思想の影響はかなり軽視されている。『シネマ』におけるパースの哲学の重要性はもっと見直されていいかもしれない。


序文では、第一巻で「運動-イマージュ」が、第二巻で「時間-イマージュ」が取りあげられることになることが予告された後で、「偉大な映画作家たちは画家や建築家や作曲家などと比較できるだけでなく、思想家とも比べることができる」と書かれる。映画と思考の問題は、第二巻で取りあげられる大きなテーマでもある。


序文でもっとも印象的だったのは、「映画の歴史には殉教者たちの名前が長々とつらねられている」という言葉だ。映画作家が思想家とも比べられる存在であったとしても、映画が他方で産業でもあるという事実は消えない。愚鈍なプロデューサーによって作品が無惨に切り刻まれてしまうことも、映画ではありふれた話である。

われわれはこのテクストに挿絵となる写真を一切使っていない。なんとなれば、むしろこのテクストのほうが、われわれ一人ひとりが多かれ少なかれその回想、エモーション、知覚を有している偉大な映画作品の挿絵にすぎないからである。

序文を締めくくるこの言葉は、ドゥルーズのシネアストたちに対する生半可でない敬愛を示している。

「この研究は映画史ではない」という冒頭の言葉はあまり素直に受け取らないほうがいいだろう。ドゥルーズは映画史を隅々までふまえた上でこの本を書いている。なによりも、最後まで読み通したとき、この本は独創的な映画史として浮かび上がってくるはずだ。


(第一巻のタイトル「Imgae-Mouvement」はとりあえず「運動-イマージュ」と訳すが、要は、運動とイマージュは別物ではなく、同じひとつのものだということだ。その意味では「イマージュ=運動」としたほうがわかりやすいかもしれない。いずれにせよ、この言葉が意味するところは、追々明らかとなっていくだろう)