『消去』において、トーマス・ベルンハルトは、猟師と庭師を、異なる世界に属する二つの存在として、何度も繰り返し対比して語り、猟師のほうをあからさまにナチズムと結びつけて考えている。さらには、『野獣たちのバラード』というかなり大胆な邦題をつけられたミハイル・ロンムの『ありきたりなファシズム』で、狩りのイメージがどのようにファシズムと結びつけられていたかを思い出してみてもいい。しかし、いまわたしが書きたいのは、パスカル・フェランの『レディ・チャタレー』のことだ。
この映画で描かれる、上流社会の貴婦人と性的な関係をむすぶ森の猟番のことを考えていたのだ。どことなくマーロン・ブランドに似ている男優によって演じられたその森番は、ぶよぶよの肉体をみすぼらしい服で覆い隠し、いつも猟銃を片手に森を歩き回っている。しかし、かれがその銃を使うことは一度もない。それどころか、ふたりが互いに裸体を花で飾り立てるシーンに顕著なように、この映画のなかの猟番はむしろ庭師に近い存在として描かれているのだ。
D.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』には、世に広く出回っている版以前に書かれた二つの稿があり、パスカル・フェランが映画化するにあたって参照したのは、『ジョン・トマスとジェーン夫人』(1972)の題で知られる第2稿であるという。わたしが『チャタレイ夫人』を読んだのはまだ物心つかないころだったし、この『ジョン・トマスとジェーン夫人』と題された稿も読んでいない。ロレンスがこの森番をどのように描いていたか正確には思い出せないのだが、わたしのイメージのなかではもっと獣のような野蛮な存在として記憶に残っている。原作に、ふたりが身体に花をのせあうシーンがあったかどうかも覚えていない。しかし、この場面にパスカル・フェラン版『チャタレイ夫人』の核心があることはたしかだと思う。
何となくそんなこともあるかなと予感はしていたのだが、映画『レディ・チャタレー』のダイアローグは、ファニー・ドゥルーズとジュリアン・ドゥルーズによるものだった。
わたしにとって、ロレンスは、ヘンリー・ミラーやメルヴィルほどのめり込んで読むことが決してなかった作家なのだが、唯一強く影響を受けた本があって、それが『アメリカ古典文学研究』という評論集だった(「むかしの鉄砲なんか朽ちさせておけばいいんだ。新しいのを手に入れろ、そしてまっすぐ射つんだ」、なんて言葉で終わる評論ふつうありますか?)。この本を読んだのは、ドゥルーズの対談集『ドゥルーズの思想』という本に影響されてのことだった。そして、どうやらパスカル・フェランも、やはりというべきか、ドゥルーズとパルネによるこの対談(といっていいんだろうか)によってロレンスを発見(あるいは、再発見)したらしいのだ。
死と不健康、権威と偽りの支配する館から、小鳥たちのさえずる森へと逃走の線を描くこと(ロレンスの詩集はまさに『鳥と獣と花』と題されている)。
『ABCの可能性』(95)の邦題で公開されたL'Âge des possibles(「可能性の時代」)以来、パスカル・フェランが一本も撮っていいなかったことに驚く。たしかアニェス・Bが選ぶフランス映画というくくりで上映された『ABCの可能性』を見て、才能を感じさせる監督だとは思ったが、同時に、小粒な監督だという印象も持ったことを思えている。その印象は、今作でもそう変わらなかった。しかし、英米文学と対比してフランス文学を語るロレンス=ドゥルーズの言葉を借りるのなら、「癒しがたいほどに知的、観念的かつ理想主義的」な匂いのしなくもなかった『ABCの可能性』から約10年の月日がたつあいだに、成熟したとはいわないまでも、作品に静かな落ち着きが増したような気がする。傑作というにはなにか足りないようにも思うが、これからも注目すべき作家であることはたしかだろう。
『レディ・チャタレー』を見ながら、映画における庭師のイメージを思い出していた。しかし、猟師のイメージならいくらでも浮かんでくるのだが、庭師のイメージはいっこうに浮かんでこない。ダグラス・サークの『天の許し給うものすべて』(そのリメイクの『エデンより彼方に』)、『ゴダールのマリア』(たしか庭師が出てきたと思う)、それぐらいだろうか。これはなにかを意味するのか、それともただの偶然なのか。
まあいい、どうでもいい話だ。