明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

アンソニー・ペリッシャー『The Rocking Horse Winner』──イギリス映画の密かな愉しみ1


グリアスンらによるドキュメンタリー運動、イーリング・コメディ、フリー・シネマ、ハマー・プロ……、といった映画史の概説に出てくるような事柄なら知ってはいるし、多数の作品を見てもいる。しかし、それ以外に自分はイギリス映画のことをどれだけ知っているのだろうか。正直言って、あまり自信がない。そんなことを痛感したのは、最近、監督の名前もタイトルもまったく聞いたことがないイギリス映画の佳作を何本か見たからだ。こんな素晴らしい映画があったなんて、どうして今までだれも教えてくれなかったのか。

今日はそのなかから2本の作品を紹介しようと思う。偶然だが(偶然なのか)、どちらも賭けにまつわる映画である。


Anthony Pelissier『The Rocking Horse Winner』(49)
★★


子供たちだけが大人にはない特殊な超能力を持っていて、独自の世界を生きている。そのために子供の世界と大人の世界のあいだに見えない亀裂が走り、大人たちには子供のことが理解できず、あるいはその本当の姿が見えない。そんな状態を描いた最初の映画は何だったのだろうか。アンソニー・ペリッシャー(名前の読み方がわからないので適当な表記だが)の『The Rocking Horse Winner』は、『光る眼』あたりを通って『シックス・センス』へといたるそんな〈子供映画〉の、最初とは言わないまでも、いちばん古い作品のひとつとは言えるかもしれない。もっとも、特殊な能力といっても、この映画に描かれるそれは、空を飛べるとか、時間を止められるとかいったたいそうなものではなく、それこそ幽霊が見えるなどといった、第六感に毛が生えた程度のものにすぎない。

この映画の舞台となるのはイギリスのとある上流家庭だ。いまこの家は経済的に困窮していて、家庭内には張り詰めた空気が漂っている。そんな状態にあっても父親のほうはろくに仕事を探そうともせず、それが高級志向の母親をなおさらいらだたせている。少年には、そんな家庭内のぴりぴりとした空気が〈ささやき〉として聞こえてき、そのたびに頭がおかしくなりそうになる。あるとき、プレゼントにもらった木馬に乗って遊んでいた少年の脳裏に、競馬の勝ち馬の名前が突然ひらめく。そしてそのとき、彼を悩ませていた〈ささやき〉も消えていたのだった。嘘のような話だが、その馬は実際にレースで一着になる。こうして少年は、新しく家にやってきた運転手の男と、叔父さんの3人で、木馬から予知した競馬馬に賭け、次々に大穴を当ててゆく。少年はただただ母親を助けるために、木馬に乗って競馬で賞金を稼ぎ続けるのだが、縁起を担いで、そのことを両親には秘密にし、貯まった金を、親戚からだと偽って定期的に母親の手に渡るようにしていた。両親はそんなこととは露知らず、その金で、高級な服を買い、毎晩のように夜会へと出かけてゆく。最初は楽しく始まった競馬もやがては義務とプレッシャーで少年を追い詰めてゆき、やがてスランプに陥ったとき、少年は木馬の上で狂ったように体をゆすりながら気を失い、そのまま意識不明の昏睡状態に陥ってしまうのだった……。

原作はD・H・ロレンスの同名小説。最初は子供向けのファミリー映画かと思ってみていたのだが、少年が狂ったように髪を振り乱し、顔中から汗をたらしながら、薄暗い部屋で必死に木馬を揺らしている姿を下から仰ぐように撮ったシーンの、壁に映る影とか、木馬の不気味な表情。そしてそこから、少年が絶命したあとに初めて事の真相を知った母親の手によって木馬が焼かれるラストまでは、ほとんどホラー映画のクライマックスに近いものがある。

子供が超能力を持つ世界といっても、この映画の少年が本当に木馬から競馬馬を予知できたのかどうかは、本当のところわからず、たんに超ラッキーだっただけかもしれない(実際、少年は、しきりと「ラッキー」という言葉を口にしている)。この映画に描かれる不思議な出来事は、合理的に説明可能であるともいえるし、また超自然的な説明をすることもできるという意味では、ファンタジーでもSFでもなく、ツヴェタン・トドロフいうところの「幻想」にまさに属する作品といっていいかもしれない。少年が主人公でありながら、彼の内面は周囲の大人たちには(そして観客にも)うかがい知れず、それゆえにひたすら不気味である。

テーマは一目瞭然で、浅薄な物質主義と愚かな虚栄心が批判されていると思うのだが、この映画に描かれる父親の影の薄さには、経済的な無力さだけでなく、性的な不能も暗に示されているのかもしれない。母親が高級な毛皮やバッグに向ける欲望は、そもそも、性的な欲求不満の代償であったともいえる。おそらく、ロレンスの原作(実は読んでいない)では、そのあたりがかなり強調して描かれているのではないか(『チャタレー夫人』からのただの推測だが)。ただし、この映画のなかでは、検閲のせいもあってか、そのあたりのことはほとんど暗示すらされていない。しかし、ラストでひとりで狂ったように木馬を揺らす少年の姿にマスタベーションへの示唆を読み取るのはそれほど難しいことではないし、彼の行為は、性的に満たされずにいる母親を満たしてあげたいという少年の欲望の表れであるという解釈も可能であろう。深読みだろうか?

ロレンスの原作をそつなく映画化しただけという気がしないでもないが、思った以上に面白かった。


もう一本紹介しようと思っていたが、長くなったので、またの機会にしよう。