明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

The William Castle Film Collection〜ウェルズからキャッスルへとつづく道



『The William Castle Film Collection』


ウィリアム・キャッスルの名前は日本でもそれなりに知られている。しかし、有名なわりには、ビデオにはほとんどなっていないし、DVD も今のところ数枚が出ているだけだ。

別に見るほどの監督ではないではないかといわれれば、たしかにそうかもしれない。本国アメリカの批評家からは、"poor taste" の作品ばかり撮る監督と揶揄され、フランスでは、"petit maître" という褒めているのかバカにしているのかわからない肩書きで呼ばれたりもする監督である。

今だに忘れられずにいるのも、彼の作品が評価されているからというよりは、彼が考え出したさまざまなギミック(仕掛け)のおかげだといってもいいかもしれない。ホラー映画『ティングラー』で、叫びをあげさせたいシーンで客席に微電流をながしたのが、そのギミックの最たる例である。他にも、『Macabre』では、もしもショック死した場合に保険が下りるように、入場客にロイド保険をかけたり、『Mr. Sardonicus』では、登場人物の運命を観客に挙手で決めさせたりするなど、キャッスルは作品を発表するごとに珍アイデアで話題を集めた。

それらのギミックの多くは、当時の映画館で映画を見た観客が、スクリーンの外で体験したことにすぎず、こうやって DVD でいまあらためて彼の作品を見るものにとっては、ほとんどなんの意味ももたない。しかし、逆にいうなら、こういうかたちでキャッスルの作品を見るしかない我々には、彼の作品そのものを正当に評価する機会が与えられているということもできる。ウィリアム・キャッスルを語るときは、いつもギミックの部分ばかりが話題になって、肝心の作品のほうが忘れられてきた感があるからだ。そして、素直に見てみるなら、この DVD-BOX に収められたキャッスルの映画はいずれも、B級映画としてよくできているのである。

ホラーの監督として知られるキャッスルだが、その作品の多くは、実際には、純然たるホラーというよりも、ホラー風味のミステリー映画とでも呼ぶべきものだ。この BOX にはいっている作品でホラーといえるのは、ひょっとしたら『ティングラー』だけかもしれない。ネタバレするといけないのであまりストーリーは語れないのだが、いずれの作品においても、不可思議で、ときには超常的ともいえる出来事がおこり、最後に意外な結末が待っている。その意外な結末は、あっと驚かせる一方で、なんだかがっかりさせるものだったりすることが少なくない。結局、最後にすべて説明がついてしまうのだ。黒沢清いうところの「克服不可能」な恐怖が死の臭いをプンプンさせて迫ってくるといった瞬間は、少なくともこの BOX に入っているキャッスルの映画にはほとんど皆無である。実をいうと、彼の最高傑作という人も多い『地獄へつづく部屋』をわたしはまだ見ていないのだが、『恐怖の映画史』の黒沢清によると、これもやはりホラーではないらしい。

たとえば、『13ゴースト』は、日本のレンタル・ビデオ店ではホラーのコーナーに置かれている。しかし、これもやはりホラーではない。この BOX に入っている他の多くの作品も、たぶん、ビデオ・ショップのホラー・コーナーに置かれることになるだろう。それでも、やはりホラーではないのだ。しかし、それは面白くないという意味では決してない。『13 Frightened Girls!』は少女が主人公のスパイ映画としてなかなか楽しめるし、「歌い骸骨」を若干思い出させる『Zotz!』は、ブラックなテイストのコメディとして魅力的だ。ゴシック・ホラーふうのミステリー『戦慄の殺人屋敷』は、人里離れた館で住人が次々と死んでゆくという、お定まりの物語を描いた映画だが、終末の日に備えて庭に巨大なノアの箱船をつくって動物を集めている男など、ユニークなキャラクターが登場して楽しませてくれる。

キャッスルのホラー映画としてはもっとも有名な『ティングラー』も、ホラーとして見るとがっかりするかもしれない(とにかく、全然怖くないことだけはたしかだ)。恐怖映画というよりも、恐怖をモチーフにしたマッド・サイエンティストもののSFと思って見たほうが楽しめるだろう(科学者を演じているのは、ヴィンセント・プライス!)。それにしても、人が恐怖するとき、体内に謎の生物(ティングラー)が生まれるというとんでもないアイデアは、だれが思いついたのだろうか。50年代には、イドの怪物を描いた『禁じられた惑星』や、核エネルギーの影響で思考が物質化して生まれた見えない怪物があばれまわる『顔のない悪魔』といったSF映画がつくられた。これもそうした一連の作品に連なる映画といえるかもしれない。恐怖によって体内に生み出される怪物ティングラーは、声を出して叫ぶことで殺すことができる。「だから、さあ叫びなさい。叫ぶのです」、と連呼するナレータの声とともに映画は終わっている。


この BOX に収められた6作のなかでわたしがいちばん気に入っているのは、珍しくふざけたところのほとんどないシリアスなミステリー『第三の犯罪』(Homicidal) だ。ジョーン・クロフォードが精神病院から退院してなお自分の狂気におののく女を演じた『血だらけの惨劇』(Strait-Jacket) も、勘のいい人なら先が読めてしまう物語ではあるが、決して悪くない。

『第三の犯罪』は、ブロンドの女がホテルに部屋を取るやいなや、荷物を運んできた若いボーイに、金をやるから自分と結婚してくれと持ちかけるところからはじまる。大丈夫、すぐに離婚してあげるからといわれたボーイは、彼女と結婚することを承諾。二人はそのまますぐに車で地方判事の家に向かい、すでにベッドに入っていた判事をたたき起こして、結婚式を行うのだが、その直後に女は、なんの前触れもなく、判事を刺し殺すのだ……。

出だしのつかみはOKである。そして、この作品にもあっと驚く結末がもうけられている。それが実は、パクリではないかといいたくなるほどある有名な作品に似ているのだが、これ以上は話せない。ふつうに見せても十分に面白い映画であったと思う。しかし、この映画でも、キャッスルはあるギミックを用いている。クライマックスの舞台となる館にキャメラが入っていく直前に、突然物語の進行が止まり、キャッスル自身が次のように語るナレーションの声が聞こえてくるのだ。「いまから一分間の猶予を与えます。これからはじまるクライマックスの恐怖に耐えられそうにない方は、いまのうちに退場してください。お金を払い戻します。」そんなことをしたら、本当に払い戻しを求める客が出てくるのではないかと思う人もいるだろう。キャッスルはそのへんもぬかりなくて、劇場に「臆病者のコーナー」というパネルを掲げた一角をもうけ、客が払い戻しをしてもらうためにはそこに行かなければならないようにしたという。

くだらないことをいろいろ考えつく奴だなあと感心する。しかし、『13ゴースト』ではおまけのように使われていた3Dは、いまや新たなテクノロージーをえて、「3D新時代」といわれる何度目かの流行を迎えつつあるし(流行のままで終わってほしいと、わたしは願っているのだが)、客席に電流を流すというお馬鹿な発想も、映画にあわせて客席が揺れるという D-Box なるものが、すでに日本にも導入され、ちがった形ではあるがパワーアップして帰って来た。まったくいやな流れだ。しかし、時代はウィリアム・キャッスル的なものになりつつあるということか(?)


言い忘れたが、ウィリアム・キャッスルは、監督以外にプロデューサーとしても、『ローズマリーの赤ちゃん』をヒットさせるという功績を残している。実は、オーソン・ウェルズの『上海から来た女』の製作にも関わっているのだが、ウェルズ関係の本の多くで、この事実は無視されているようだ。たとえば、バーバラ・リーミングの『オーソン・ウェルズ偽自伝』では、巻末のフィルモグラフィーに、「ウィリアム・カースル」という名前で登場するだけで、それ以外になんの言及もない("Castle" は「カースル」と読む場合もあるが、「ウィリアム・キャッスル」と表記するのがふつう)。この「ウィリアム・カースル」なる人物が、有名なホラー映画の監督であることに、訳者はたぶん気づいていない。

『上海から来た女』のはるか以前にも、キャッスルはウェルズと関わっている。『市民ケーン』でデビューする前のウェルズが、1938年に、舞台作品の導入用に撮ったサイレント短編映画『Too Much Johnson』を使う予定だった劇場のオーナーが、ウィリアム・キャッスルだったのである(ジョナサン・ローゼンバウムの『Discovering Orson Welles』の註にそのことが言及されている)。もっとも、その短編映画は、結局、使われることなく終わった。