明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

グリゴーリ・コージンツェフ、レオニード・トラウベルグ『Odna』(Alone)


グリゴーリ・コージンツェフ、レオニード・トラウベルグ『Odna』(Alone)


グリゴーリ・コージンツェフは、ソ連におけるハムレット映画の監督として日本でもそれなりに有名だが、それ以前に彼が撮った作品についてはほとんど紹介されていない。コージンツェフは20年代の半ばのサイレント時代から映画を撮り始めており、そのほぼすべてがレオニード・トラウベルグとの共同作品だった。ふたりのコンビは、1948年、トラウベルグ反ユダヤ主義の粛正を受けるまで続く。『Odna』(31) はこのコンビの代表作の一つである。

『Odna』の前に二人が撮った『新バビロン』(29) は、表現主義的なセットを使ってパリ・コミューンを描いた映画であり、その前衛的な手法が災いしてか検閲の憂き目にあっていた*1。『Odna』の製作は『新バビロン』と同じ年に始まっている。折しもスターリンによる第一次五カ年計画が始まったばかりで、製作過程における党の“指導”はますます強力になっていた。『Odna』には、この当時のソヴィエトのスローガンであった、教育の奨励、富農(クーラク)の排除、テクノロジーの導入といったテーマが詰め込まれており、その意味ではまさしくプロパガンダ映画である。しかし、この映画には、プロパガンダ映画と割り切った上で見ても、ユニークな点が多々あって興味深い。


ストーリーを簡単に説明しておこう:

レニングラードの学校を卒業したばかりのヒロインが、アルタイ山脈(ロシア・中国・モンゴルにまたがる山脈)に教師として派遣される。そこはまわりに何もない平原で、人々はテント暮らしをしていて、女シャーマンが怪しげな祈祷をしているような文明の遅れた地だ。ヒロインは、一部の村人(クーラクの地方版みたいなもの)の抵抗に遭いながらも、社会主義のなんたるかを浸透させていく。(シチュエーションだけ見ると、チェン・カイコーの『子供たちの王様』に似ていなくもない。)


ヒロインを演じているのはエレーナ・クジミナ。ボリス・バルネットの『国境の町』や『青い青い海』でヒロインを演じた女優だ。この映画の中では、本名と同じ役名エレーナ・クジミナで出ている。

冒頭、俯瞰を多用して撮影されたレニングラードの光景が次々とモンタージュされていく場面を見ると、すごくモダンな映画を予感させるのだが、エレーナ・クジミナが僻地の教師に任命されるところからがらりと雰囲気が変わる。その村にやってきて彼女が最初に見るのは、馬の皮を丸ごと剥いで木につるした不気味なトーテムだ。無知で遅れている未開民族に社会主義のなんたるかを教えてやるという、傲慢なプロパガンダ映画の図式に収まった形ではあるが、この少数民族の生活の描写はエスニックな視点から見てなかなか興味深い。

この映画で、もう一つ興味深いのは、この村にヒロインより先に赴任していたソヴィエト代表の党員の存在だ。この男は、クジミナが村のクーラクと対立して困っているときも全く何もしようとしない、怠惰で、腐りきった人物として、徹底的にネガティヴに描かれている。こういう映画でソヴィエトの党員がこんなふうに描かれるのは珍しい。


しかし、この映画で何よりも注目されるのは、そのサウンドの使い方だろう。この映画は最初、サイレント映画として撮られたが、後からサウンドを加える形でトーキー化された。ヒッチコックの『ゆすり』と似たような経緯をたどって作られた作品だが、トーキー部分はもっぱら、画面外から聞こえてくる歌や、広場の拡声器から話される音声などに限られていて、人物の台詞はほとんど字幕で処理されている。

ヒロインがフィアンセに電話をかけて相談するシーンがあるのだが、ここのサウンドの使い方が実に面白い。電話ボックスに先に男性が入っていたので、最初、彼女はボックスの外で待つ。このとき、カメラはボックスの外からガラス越しに中を撮っているだけだ。しかし、中で話している男性の声ははっきりと聞こえている(ここは、この映画の中で、画面に映っている人物の声が聞こえてくる数少ないシーンだ)。次に、彼女がボックスの中に入ると、カメラもボックスの中に移動し、電話で話す彼女の姿をとらえる。さっきの男性と違って、彼女が電話で話す声は全く聞こえず、台詞はすべて字幕で処理されている。ところが、ヒロインの声が聞こえない代わりに、周りのざわめきだけは、わざとらしいぐらいはっきりと聞こえる。そして、電話を終えて彼女がボックスの外に出た瞬間、すべての音が聞こえなくなるのだ。非常に斬新で、実験的な音声の使い方である*2


この映画が撮られたのは、“芸術的”過ぎる表現が反体制的と考えられるようになっていく時代である。この頃はまだ“社会主義リアリズム”という言葉は使われていなかったはずであるが、すでにそういう方向に向かいつつあったことは間違いない。この変化は、一言で言うなら「イメージから物語へ」とでも呼ぶことができるだろう。多かれ少なかれどこの国の映画でも、こうした変化は起きてきたことであるが、面白いのは、ロシア映画の場合、この変化が、社会体制の変わり目と、サイレントからトーキーへの移行期がちょうど重なる時期に起きていたことだ。


音楽を『新バビロン』の時と同じショスタコーヴィチがつけている。『Odna』という作品は、ひょっとしたら、映画としてよりも、ショスタコーヴィチがつけた映画スコアとして今では有名なのかもしれない。実を言うと、この映画は、クライマックスに当たる第6巻目のフィルム・リールが欠落しており、ショスタコーヴィチのつけた音楽スコアも完全な形では残っていない。しかし、ショスタコーヴィチのスコアは様々な資料から何とかオリジナルに近い形で復元されている。DVD で使われているのは、その復元され、再演奏されたスコアだ。ショスタコーヴィチのメロディは独創的で、時にアイロニーに満ちている。彼はこの頃から当局に目をつけられていたのだろう。スターリン体制下でショスタコーヴィチが生かされていたのは、ひとえに彼の映画音楽の才能故だったという人もいる。



(上写真はショスタコーヴィチの映画スコア。)


たしかに大枠ではプロパガンダ映画と言っていいだろう。しかし、随所に批判的な視線が見え隠れしている。今見ても興味深い作品である。


DVD は、今現在、Amazon ではドイツのサイト(Amazon.de)にしか置いていないようだ。


*1:『新バビロン』は見ていないのだが、DVD の特典映像に引用されている映像を見ると、とても見たくなる。「新バビロン」という名前のキャバレーが出てくるのだが、そのセットがすごい。

*2:すでに、この数年前の1928年8月5日、エイゼンシュテイン、プドフキン、アレクサンドロスは、三氏連名のマニフェスト「トーキー映画の未来」を発表し、視覚的映像と聴覚的音声との「対位法的な利用」にこそトーキーの未来はあると主張していた。