明るい部屋:映画についての覚書

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ロバート・シオドマク『大いなる罪びと』――ギャンブル、エヴァ・ガードナー、そしてゴダール


ロバート・シオドマク『大いなる罪びと』(The Great Sinner, 49) ★★½


『The Rocking Horse Winner』、『スペードの女王』……。偶然なのだが、なぜか最近、ギャンブルをテーマにした映画を見ることが多い。今回紹介するこの『大いなる罪びと』もまた賭けを描いた映画である。

ギャンブルを主題にした映画は、これまでそれこそ数え切れないほど撮られてきた。『スペードの女王』はサイレント時代にすでに映画化されているし、ほとんど映画の創造と同時に存在しはじめたといっていい西部劇において、ギャンブルはこのジャンルに欠かせない舞台装置のひとつであった。ギャンブルこそ明確に描かれてはいないが、カードゲームに興ずる人たちを撮影したリュミエール兄弟の『エカルテ遊び』までさかのぼるとすれば、それこそ賭けは映画の創成期から常に存在してきたといえるだろう。日本のやくざ映画においても賭博はなくてはならない要素のひとつであり、また『博奕打ち 総長賭博』や「女賭博師」シリーズなどにおいては、物語そのものを動かす原動力にさえなっている。

一口にギャンブルを主題にした映画といっても、カジノやパチンコ店、あるいはボクシング界を舞台にイカサマがらみの物語を描いた映画もあれば、『ハスラー』のようにギャンブラー同士の熾烈な勝負を描いた映画もあり、様々である。しかし、ロバート・シオドマクの『大いなる罪びと』が描くのは、いかさま師のたちの騙しあいでも、ギャンブラー同士の勝負でもない。ギャンブルに魅了され、その誘惑に抗えずに破滅していく一人の男の姿である。ソロルド・ディキンソンの『スペードの女王』も、賭けで破滅してゆく男を描いた映画だったが、どちらかというと賭けそのものよりも、それにまつわる数奇な物語を語ってゆくことに眼目がおかれていた。『大いなる罪びと』に描かれるのは、そういう外側から見られたギャンブルではなく、いわば賭博者の内面の戦いであるといってもいいだろう。それは、「大いなる罪びと」というタイトルにも現れている。日本人の感覚では若干わかりづらいのだが、キリスト教が根付いている欧米諸国において、賭博者は、勝とうが負けようが、誘惑に負けた敗残者、罪びとであるということなのかもしれない。ギャンブルを描いた映画に、「The Sin Unatoned」や、「The Sins of St. Anthony」などといった「罪」という言葉の入ったタイトルが多いのは多分偶然ではないのだろう。


グレゴリー・ペック演じる有名作家フェージャは、列車のなかで出合った美しい女性ポーリーヌ(エヴァ・ガードナー)に導かれるようにしてヴィースバーデン(ドイツ)のカジノに出入りするようになる。最初は、ギャンブラーを描く小説の取材のつもりだったのだが、ポーリーヌが父親のつくった借金のかたにされていることを知ると、その借用書を取り戻すつもりで自らもギャンブルに手を出す。はじめは負け続けるが、やがて強運が訪れ、ついにはカジノが一時ストップするほどの大金を手に入れる。しかし、カジノのオーナー(メルヴィン・ダグラス)は、適当な口実をもうけて借用書を渡すのを一日引き伸ばす。しかし、フェージャはそのたった一日を待つことができず、せっかく手に入れた大金を賭けで失い、挙句の果てに、自分がこれまでに書いたものだけでなく、これから先に書くであろうすべての著作物の権利までをカードゲームで賭けて、あっという間に負けてしまう。フェージャは教会で一人ひざまずいて自らの罪を懺悔するが、近くにあったお布施箱が目に入ると、それにまで手を伸ばそうとする……。

多くの人が指摘していることであるが、この映画のベースになっているのはおそらくドストエフスキーの『賭博者』であろう(ただし、クレジットはされていない)。大まかなあらすじや、ドイツを舞台にしていること、あるいは、登場人物の名前など、ドストエフスキーの小説との類似点は多々ある。重要な違いは、主人公が小説家という設定になっているところだろうか。ドストエフスキー自身が、この小説を書いていたころ、自分の著作の権利を借金の肩代わりにしていたことを考えると、それも物語に取り入れて脚色したということなのだろう。いずれにせよ、作家が自分の作品の権利までをも賭けの対象にするというのは、金や土地の権利をギャンブルで賭けるよりももっとずっと凄まじいものがある。ちなみに、ドストエフスキーの『賭博者』が正式に映画化されるのは、シオドマク作品の約10年後に撮られたクロード・オータン=ララ監督、ジェラール・フィリップ主演の映画『賭博者』(58) においてである。


ソロルド・ディキンソンの『スペードの女王』のように、一目でわかるような視覚的効果や演出はなされていないが、シオドマクはこの映画で、ギャンブルに堕ちてゆく一人の男の内面を、巧みな編集によって、まるで観客自身が目くるめく渦に飲み込まれてゆくかのような感覚と共に描いている。ギャンブルで破滅する人間を描いた映画はたくさんある。しかし、人がどうやってギャンブラーになるのかを、ドラッグのようにいったん知ってしまうと抜け出すことのできない賭けの誘惑を、これほど見事に描いた映画はあまりないのではないだろうか。そういう意味では、ギャンブルを描いた最高の一本といってもいいと思う。

シオドマクは、周知のように、ドイツからフランスをへてアメリカに渡った亡命映画作家である。アメリカに渡ったシオドマクは、先に渡米していた弟カートの手助けで、ユニヴァーサルと契約し、『幻の女』をはじめとする数々の名作をこの製作会社で撮ることになる。シオドマクのアメリカ時代は、ほとんどこのユニヴァーサル時代であるといってもいいくらいである。しかし、ユニヴァーサル一色の彼のアメリカ時代にも、RKOで撮られた『らせん階段』や、二〇世紀フォックスで撮られた『都会の叫び』など、他社に貸し出されて作った作品がほんの数本だけ存在する。実は、この『大いなる罪びと』もまた、シオドマクがMGMに貸し出されて撮った作品であった。

『大いなる罪びと』を見ていてまず驚くのは、俳優陣の豪華さだ。グレゴリー・ペックエヴァ・ガードナーの共演というだけでも十分ゴージャスなのに加えて、エヴァ・ガードナーの父親役にウォルター・ヒューストン、そのウォルター・ヒューストンの母親役にエセル・バリモアという贅沢な配役。さらには、ギャンブラーたちが煙草入れなどの私物だけでなく、〈魂〉をも売り渡す場所として作中重要な位置を占める質屋の陰険な女店主をアグネス・ムーアヘッドが演じているというのもすごい。この豪華さは、ユニヴァーサルで撮られたシオドマク作品にはめったにないものだ。ウォルター・ヒューストンとエセル・バリモアの掛け合いには目を奪われるし、ほんの2回しか出てこないアグネス・ムーアヘッドも強烈な印象を残す。グレゴリー・ペック演ずる主人公と同じく、ギャンブルにおぼれて、娘の金まで平気で次々と賭けにつぎ込んでことごとく負けながら、いつも陽気に笑っていて、決して破滅のほうへは(少なくとも自ら進んでは)向かっていかないという意味で、主人公とは対照的な敗残者を演じるウォルター・ヒューストンはいつものように最高だし、ほとんど死に掛けていると思われていたエセル・バリモアが車椅子に乗って現れ、ヒューストンに乗せられてギャンブルの味を覚えたかと思うと、瞬く間に全財産(その遺産をウォルター・ヒューストンは当てにしていたわけだが)を失ってしまい、気づくとテーブルに背筋を伸ばして座ったまま死んでいるというシーンも忘れがたい。

しかし、このMGM的大作主義とでも呼べそうなものは、果たしてこの映画にふさわしかったのだろうか。この映画がユニヴァーサルで撮られていたら、ひょっとしたらもっと素晴らしいものになっていたかもしれないという気がしないでもない。もっと地味な俳優たちで、こじんまりと作られていたほうがこの作品には合っていたのではないだろうか。そもそも、エヴァ・ガードナーという女優はあまりにも華やか過ぎるのだ。オーラがありすぎて、どの映画に出ているときも、彼女がそこにいるだけで現実感が若干薄らいでしまうようなところがあり、いつも少し周りから浮いてしまう。彼女のそういうところが、わたしは少し苦手なのである。もちろん、そういう彼女でなければできない役もたくさんあるのだが(たとえば、『パンドラ』など)。


さて、ここからは余談になる。この映画のことを調べているときに、なぜかゴダールの名前がちらちら出てくるので、不思議に思っていたのだったが、その謎が解けた。この『大いなる罪びと』は、フランスで公開されたときに、"Passion fatale" (「破滅的な情熱」)というタイトルをつけられていた。ゴダールの『映画史』で、歌うエヴァ・ガードナーのイメージで始まるセクションのタイトル "Fatale beauté"(「破滅的な美しさ」)は、実は、このシオドマク作品のフランスでのタイトルにちなんで付けられたものだったのである(と、ゴダール本人が言っている)。そのなかでゴダールは、性と美と死と映画との宿命的な関係を考察し、女が常にキャメラの背後にいる男によって撮られてきたという映画の歴史が指摘されていたのだった。ゴダールの『映画史』は何度となく見ているのだが、今回、このシオドマク作品をはじめて見て、そう言えばそんなエピソードがあったなとぼんやり思い出したしだいである。

折にふれて、本気なのか冗談なのかわからない発言を繰り返しているゴダールの、これもまた言葉遊びに過ぎないのだろうか。それとも、ここにはさらに深く考察すべき何かがあるのか。ゴダールエヴァ・ガードナー主演の『裸足の伯爵夫人』がお気に入りだったことは知られているし、そういえば、『さらば、愛の言葉よ』でも、ペック=ガードナー主演の『キリマンジャロの雪』が引用されていたのだった。しかし、エヴァ・ガードナーゴダールのひそかな関係について考えるのはまたの機会にしよう。