「共謀罪」、不気味です。
「ジョジョの奇妙な冒険」、読み始めました。
最近、ロードショーが充実している。『ブロークバック・マウンテン』も、『アメリカ、家族がいる風景』も、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』も、今年のベストテンの上位にはいってもおかしくない出来だった。わたしはあまり買っていないのだが、『ニュー・ワールド』も異色の歴史映画として記憶には残った(阿部和重と中原昌也は大傑作と持ち上げている)。
ジャームッシュの新作『ブロークン・フラワーズ』もこれまた期待以上の出来で、大いに満足した。「ブロークン・ブロッサム」ならぬ「ブロークン・フラワーズ」というタイトルの意味が正確になにを意味するのかにわかには定めがたいが、この映画は実はグリフィスではなく、ジャン・ユスターシュに捧げられている。といっても作風がユスターシュに似ているというわけではない。むしろ、まるで似ていないといった方がいいのだが、ニコラス・レイに師事したジャームッシュが、「アメリカの友人」のひとりユスターシュに映画を捧げているとしても、なんの不思議もないだろう。
さて、その『アメリカの友人』を撮ったヴェンダースがひさびさに撮った劇映画、『アメリカ、家族のいる風景』が、同じくジャームッシュのひさしぶりの長編劇映画『ブロークン・フラワーズ』と同じく、息子を捜す父親の旅を描いていることはたんなる偶然なのだろうか。いや、偶然だからこそ、逆に興味深いともいえるのだが、「家族の回復」などという社会学者が喜びそうなテーマでこの映画を語ることは、『アメリカ、家族のいる風景』はともかく、この映画では的はずれになるだろう。実際、この映画では父と息子の問題も、家族の問題も語られているわけではないからだ。
父親ビル・マーレイが探している息子は、『アメリカ、家族のいる風景』のようにあっさりとは見つからず、かつて関係のあった女たちを訪ねる旅が、「失われた時」をふいによみがえらせるわけでもない。どちらかというと、気まずい時間だけが過ぎていくのだが、ジャームッシュは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』以来のあの独特の「間」を使った演出でそれをユーモラスに見せてゆく。過去でもありまた未来でもある息子は結局姿を現すことがない。では、ドン・ファンの旅は徒労に終わったのか。映画のラストで、路上に呆然と立ちつくすビル・マーレイの眼にはすべてが真新しく見えていたように思う。わたしには心が揺れる瞬間だった。
冒頭のシーンで女の手がポストに手紙を投函するショットがあったとしても、あの手紙を出したのはジャームッシュ自身ではなかったかと思うのだ。その証拠にクレジットの文字はタイプライターで打たれていたではないか(などといい加減なことをいってみる)。