アレクサンドル・ロゴシュキン『ククーシュカ』(2002)★★
ラップランドの存在を初めて知ったのは、たしか大島弓子のなにかのマンガのなかでだった。少女マンガの主人公が夢見る不思議の国。どこか遠い遠いところにある夢の国。マンガのなかにだけ存在する場所なのだろうと最初は思っていた。この場所が実在することを知ってからも、ラップランドはわたしにとって、その名の意味するとおり「遠い僻地」、ありえない場所に存在するおとぎの国でしかなかった。
もちろん、これはわたしの想像のなかでのことにすぎない。ラップランドはおとぎの国でも何でもなく、フィンランドの最北部の地方のことをいう。ノルウェー、スウェーデン、ロシアに接するこの土地は、第二次大戦時、フィンランドがドイツと組んでソ連と戦った血なまぐさい戦争の舞台ともなった。この映画に描かれている戦争が、その第二次ソビエト・フィンランド戦争である。
こういう背景を知らなければ冒頭の場面は多少わかりにくい。主人公のフィンランド狙撃兵ヴィエッコは、戦争放棄の姿勢を問われ、その罰として、同じフィンランド兵たちによってナチの軍服を着せられて、プロメテウスよろしく岩に鎖でつながれる。もうひとりの主人公のロシア軍大尉イワンは、身に覚えのないことで仲間に密告されて、秘密警察に連行される途中、味方の誤爆を受けて瀕死の重傷を負う。ふたりとも味方によって不当な拘束を受けていたのだが、これも見るものを混乱させる部分で、だれが敵でだれが味方なのかよくわからなくなる。映画は説明的なセリフを排して淡々と描いてゆくので、人間関係を理解するのに最初は苦労させられるかもしれない。しかし、映画が進んでゆくにつれて、ふたりの置かれた立場は徐々にわかっていく仕組みになっている。
負傷したイワンは、その近辺にひとりで住んでいたサーミ人の女、アンニによって手当てされ、一命を取り留める。そこに、なんとか岩から鎖をはずしたヴィエッコがやってくる。こうして三人の奇妙な共同生活が始まる。三人は三人とも相手の言葉がまったくわからない。ヴィエッコは、自分は戦うことをやめたとイワンに力説するが、イワンはヴィエッコをナチと罵り、隙があったら命を奪おうとする。長いあいだ男を見たことがなかったアンニは、若くて美男子のヴィエッコに一目で惹かれ、やがてふたりは結ばれる。ある日、近くに飛行機が不時着する。近くにばらまかれていたビラから、戦争が終結したことをヴィエッコは知るのだが、事態を誤解したイワンが彼をピストルで撃ってしまう。イワンはすぐに過ちに気づき、瀕死のヴィエッコをアンニの家まで担いで帰る。ヴィエッコは、日本人ならさしずめ三途の河原とでも呼びそうな、深い谷を見下ろす、石だけが転がっていて草木ひとつない殺風景な丘を、金髪の少年に導かれて歩いている。その先には死の世界が待っているのだが、アンニの必死の呼びかけに彼は意識を取り戻す。ヴィエッコを生の世界に呼び戻すのに疲労困憊したアンニは、イワンに身を任すのだった。
しばらくして、ヴィエッコとイワンはアンニに別れを告げ、それぞれの故郷に帰って行く。10年後、アンニの傍らには、二人の名前を付けられた二人の子供が、彼女の話す物語に耳を傾けている。
日本での公開にさいして勝手につけられたと思われる「ラップランドの妖精」というサブタイトルの意味はよくわからない。しかし、この映画が現実の戦争を背景として描きながら、一種のおとぎ話として作られていることはたしかだ。物語はひとりの兵士が死の淵からよみがえるところで始まり、彼とは敵同士であるもうひとりの兵士が同じく瀕死の状態からよみがえるところで終わっている。ふたりを救うのがひとりの女性であり、彼女がふたりの子供を産んだことを示すエピローグでこの映画は締めくくられている。
むかしレンフィル映画祭で見た同じロゴシュキン監督の『護送兵』(90)のように、軍隊の暗部を正面切って批判する作品とは作風が異なり、この映画は、生命を司る女性の存在を中心にすえて、反戦のメッセージを静かに訴えかけてゆく。『護送兵』のようなシャープさは全然感じられず、本当に同じ監督の作品だろうかと思ったほどだ。どうやら、ロゴシュキンの場合、ソクーロフやアレクセイ・ゲルマンのような孤独な道は歩まなかったらしい。『ククーシュカ』は、撮られた場所こそマージナルではあるが、作品自体はそれほどマージナルではない、といったところか。しかし、その分、一般の人にも親しみやすい作品になっているとはいえる。はまる人にはたぶんすごく好きになる映画だと思うので、見に行って損はない。ただし、「ラップランドの妖精」というサブタイトルは作品とはほとんど関係ないと思うので、あまりメルヘンチックな映画は期待しないほうがいいだろう。