また『となりのトトロ』を見てしまった。テレビで放映されるとついつい見てしまう。宮崎駿のアニメではわたしはいまだにこれがいちばん好きだ。リアリスティックな部分とファンタスティックな部分のバランスがいちばんいいように思えるし、説教くさくないのがいい(ほかの作品は幾分説教くさいところがある)。先日、『ハウルの動く城』をテレビではじめて見た(というか、宮崎駿のアニメはテレビでしか見たことがない)。ヴィジュアル的にはあいかわらず素晴らしかったが、物語にまとまりがなく、いつものような説得力に少し欠けるような気がした。しかし、いつになく混沌としているところが逆に面白いとも言える。例によって、ここでもやはり家族は不在である(暖炉の火を囲んだ疑似家族のようなものが形成されるのだが、その火がしゃべったりするのだ)。その意味では、『となりのトトロ』は例外的な作品だったといえるかもしれない。
チャン・ユアン『緑茶』★★★
チアン・ウェンとヴィッキー・チャオによる異色のラヴ・ストーリー。ヴィッキー・チャオが一人二役でふたりの女を見事に演じ分けている。理想の男性を求めて見合いデートを繰り返す、眼鏡をかけた堅物そうな大学院生ファン。一方、バーでピアノを弾いているランランは、ファンと瓜二つの顔をしているが見た目も正確も正反対で、声をかけてきただれとでも寝る奔放な女。遊び人ふうのキザな男ミンリャンがファンと見合いデートをするところから映画は始まる。全然タイプではないインテリ女ファンに最初は大して興味を持っていなかったミンリャンは、なんどか会って彼女の自称〈友人〉の話を聞かされるうちに、次第にファンに惹かれてゆく。しかし、ファンとの距離はいっこうに縮まらない。そんなとき、ミンリャンは彼女と瓜二つの女ランランに出会う。ファンとは違って見た目は派手で、性的に奔放に見えるランランだが、何かを求めて次々と男と逢瀬を繰り返している点ではファンと同じである。ミンリャンはファンとランランが同一人物ではないかと疑うのだが、映画はそれを終始曖昧にしたまま最後まで進んでゆく。ふたりが同じ女性であるかどうかは結局はどうでもよい。もしハリウッドでリメイクされたなら、そこが肝心ということになるのだろうが、ここではむしろ、この物語を通して、女という生き物の持つとらえがたさや、現代人の孤独な生態を浮かび上がらせることに主眼が置かれている。ウォン・カーワイふうといえばそれまでだが、最後まで飽きさせない力量はなかなかのもの。
こういう一人二役の使い方では、プレストン・スタージェスがバーバラ・スタンウィックに一人二役を演じさせたコメディの傑作『レディ・イヴ』がすぐに思い浮かぶ。詐欺師の女と上流界の淑女という瓜二つだが正反対のふたりの女にヘンリー・フォンダが恋をして振り回されるという物語だが、あの映画のラストにはめまいすら覚えたものだ。それに比べると『緑茶』の終わり方は詰めが甘い気がする。
ところで、二人一役といえば、前々から気になっていることがある。日本映画にはなぜこんなにも二人一役を使った映画が多いのかということだ。『プラーグの大学生』以来、映画がスクリーンに分身を登場させることに魅せられてきたことは周知の事実だが、それにしても日本映画には一人二役が多すぎるように思えてならない。『中山七里』や『人生劇場 続飛車角』の中村玉緒や佐久間良子のように、主人公が愛した女が死んだり落ちぶれて姿を消したあとに、それと瓜二つの女が現れるというのならまだしも理解できるが、『一心太助』シリーズの中村錦之助の一人二役のように、物語の上で何の役割も果たしていないように思えるケースも少なくない。これは単にスターの見せ場を多くするために考え出されたシステムにすぎないのだろうか。いずれにせよ欧米の映画と日本映画では、一人二役のありようが違うような気がする。